資治通鑑漢紀 世宗孝武皇帝 元朔 元年 前128年
冬十一月 孝廉・廉吏の推薦を厳命
- 武帝は、以前から廉潔・孝行の者を推挙するよう求めてきたのに、郡をあげても一人も薦めないことがあるのは、教化が下に及ばず、善行を積んだ者が上聞を閉ざされているからだとして詔を出した。
- 進賢すれば上賞を受け、賢を蔽えば顕罰を受けるのが古の道であるとして、二千石で推薦しない者の罪を議させた。
- 有司は、孝を挙げないのは詔に奉じない不敬、廉を察しないのは職務に堪えないこととして、前者は不敬論、後者は免官相当と奏上し、許可された。
十二月 江都易王の死
三月甲子 衛夫人を皇后に立てる
- 衛夫人が皇后に立てられ、天下に大赦が行われた。
- その子の皇子据もすでに生まれていた。のちの戾太子である。
秋 匈奴の侵入と李広の再起用
- 匈奴二万騎が侵入し、遼西太守を殺して二千余人を掠め、さらに韓安国の陣営を囲んだうえ、漁陽・雁門にも入り各地で千余人を殺略した。
- 韓安国はより東の北平に移って屯したが、数か月で病死した。
- 武帝は李広を再び召して右北平太守とした。匈奴は彼を「漢の飛将軍」と呼び、以後数年、右北平には侵入を避けた。
衛青の出撃と蒼海郡の設置
- 車騎将軍衛青が三万騎を率いて雁門から出、李息は代から出撃した。衛青は数千の首虜を挙げた。
- 東夷の薉君・南閭ら二十八万人が降り、蒼海郡が置かれた。
- しかしその移住・経営の費用は南夷の場合に匹敵し、燕・斉地方は大いに騒ぎ立った。
この年の諸王薨去と三人の上書
- 魯共王余と長沙定王発が死去した。
- 臨菑の主父偃、厳安、無終の徐楽がそれぞれ上書した。
- 主父偃は、諸国を遊歴しても厚遇されず、諸生から排斥され、貧窮して借財もできなかったため、西に入って闕下に上書した。朝に奏して夕に召され、その九事のうち八事は法令に採られ、一事は匈奴討伐反対の諫言だった。
- 主父偃は、秦の蒙恬北伐や高祖の平城包囲を引き、匈奴は鳥獣のように集散して制しにくく、北河守備と遠距離輸送は天下を疲弊させるだけだと論じた。
- 厳安は、天下の人々が車馬・衣裘・宮室・音楽・飲食において過度の奢侈を競い、これが民に侈りを教えていると批判した。末業へ走ること、秦が北は胡・南は越に兵を宿して滅んだこと、そして西南・北方での拡張が臣下には利でも天下の長策ではないと論じた。
- 徐楽は、天下の患いは瓦解より土崩にあると説いた。七国の乱は瓦解にすぎないが、陳渉の蜂起のように、民が困窮し、上が顧みず、風俗が乱れたときに起こる崩れこそ危険であるとした。関東の不作と辺境の負担により、民が現に不安定になりつつあると警告した。
- 武帝は三人を召見し、「どこにいたのだ、もっと早く会いたかった」と言ってみな郎中に任じた。主父偃はとくに寵を受け、一年で四たび昇進して中大夫となった。大臣たちはその弁舌を恐れて多くの賄賂を贈った。