資治通鑑漢紀九 世宗孝武皇帝 建元 一年 前140年

冬十月 賢良方正の策問と董仲舒の進言

  • 冬十月、武帝は賢良方正・直言極諫の士を推挙させ、自ら策問して、古今の政治の道を問うた。
  • 広川の董仲舒は、政治の根本は「道」にあり、仁義・礼楽・教化によって国家は長く安定すると説いた。周の衰退は道が失われたためではなく、君主がそれに従わなかったためであり、反対に宣王が先王の徳を明らかにしたことで再興できたのだと論じた。
  • また、君主が心を正せば朝廷・百官・万民・四方まで正され、陰陽は調い、風雨も時を得るとし、今なお瑞祥が十分に現れないのは教化が立たず、民が正されていないからだと述べた。
  • 董仲舒は、秦が先王の道を捨てて苟且な政治を行ったため短期間で滅んだとし、その悪習が漢代にも残っていると批判した。政治が行き詰まったなら、琴瑟の弦を張り替えるように制度と風俗を改めるべきで、漢がなお十分に治まらないのは更化を断行してこなかったからだとした。

学校・官人登用・教化の整備

  • 董仲舒はさらに、古代の聖王は幼少から学ばせ、成長後に適材適所で官に用い、爵禄で徳を養い、刑罰で悪を戒めたので、民は礼義を知って恥を重んじたと論じた。
  • 秦は申不害・商鞅・韓非の法を尊び、名目を責めて実質を見ず、善人も必ずしも保護されず、悪人も必ずしも処罰されなかったため、官吏は虚飾に走り、詐偽と利欲が横行したと批判した。
  • そのうえで、天下の士を養成する本源として太学を興し、明師を置いて人材を育てるべきだと主張した。一郡一国から推挙された者で、詔に応じうる人が少ないのは、王道が絶えがちだからだと見たのである。
  • 郡守・県令は民の師帥でありながら、教化を担わず、上の法を行わず、百姓を苦しめ、奸吏と利を共にする者もあると指摘した。これが陰陽の不調や民の困窮の原因だとして、地方長官の選び方の見直しを訴えた。
  • 彼は、郎官の選抜が富資に偏っていること、在任日数の長短で昇進を決める慣行を批判し、諸侯・郡守・二千石に毎年賢者二人を貢進させ、良い推薦には賞、誤った推薦には罰を与える制度を提案した。

道・制度・大一統についての主張

  • 董仲舒は、善悪は微細なところから積み重なり、言行はやがて天地を動かすと説いた。聖王は乱世を継げば弊害を救うため制度を改めるが、道そのものを変えるのではない、とした。
  • 夏・殷・周の違いは、先代の弊を救うために忠・敬・文の重点を変えたのであり、根本の道は天に出て不変であると論じた。漢は大乱の後を継いだのだから、周の文飾をいくらか抑え、夏の忠実さを採るのが適切だとした。
  • また、高位高禄を受ける者がなお民と利を争えば、民は日々困窮し、富者は奢り、貧者は罪に走るほかなくなると警告した。君子の位にありながら庶人の行いをすることの危険を、易の語や公儀休の故事を引いて論じた。
  • 最後に『春秋』の大一統を引き、諸子百家の説が並び立てば法制が一定せず、民も拠るところを失うとして、六芸と孔子の術に合わない学説は進出させず、統紀と法度を一つにすべきだと進言した。

董仲舒・荘助の登用と申韓学の排斥

  • 武帝は董仲舒の対策を高く評価し、江都相に任じた。また、会稽の荘助も賢良対策によって抜擢され、中大夫となった。
  • 丞相の衛綰は、推挙された賢良の中に申不害・韓非・蘇秦・張儀の学を修め、国政を乱す者がいるとして、そうした者を罷めるよう奏上し、許可された。
  • 董仲舒は若いころから『春秋』を学び、景帝の時代には博士となっていた。礼に外れぬ立ち居振る舞いで学者の尊敬を集めており、江都相としては驕勇な易王を礼で矯正し、王から敬重された。

春二月・夏六月 貨幣と宰相人事

  • 春二月、恩赦が行われ、三銖銭が施行された。
  • 夏六月、丞相の衛綰が免官され、魏其侯の竇嬰が丞相、武安侯の田蚡が太尉となった。
  • 武帝はもともと儒術を好み、竇嬰・田蚡もともに儒者を好んだため、趙綰を御史大夫に、蘭陵の王臧を郎中令に推挙した。

明堂計画と申公の召致

  • 趙綰らは明堂を建てて諸侯を朝会させることを請い、さらにその師である申公を推挙した。
  • 武帝は使者を送り、束帛・加璧・安車駟馬という厚礼で申公を迎えた。
  • 申公は八十余歳で入朝し、治乱の要を問われると、政治は多言ではなく実行にあると答えた。だが、このころの武帝は文辞を好んでいたので、その簡素な答えに満足しなかった。
  • それでもすでに招いた以上、太中大夫とし、魯邸に住まわせて、明堂・巡狩・暦法・服色の改定などを議論させた。

冬十月 淮南王安の来朝と儒者失脚

  • この年、内史の寗成が罪により髠鉗された。
  • 冬十月、淮南王安が来朝した。武帝は安を諸父の一人として、しかも才知の高い人物として特に尊重し、宴見ではしばしば日暮れまで語り合った。
  • 淮南王安は田蚡と親しく、田蚡は覇上で安を迎えて、皇太子がまだいない以上、もし万一のことがあれば、皇帝の孫で仁義の聞こえ高い安こそ有力だとほのめかした。安は大いに喜び、田蚡に多くの贈り物をした。
  • しかし太皇太后の竇氏は黄老を好み、儒術を喜ばなかった。趙綰が東宮へ事を奏上しないよう求めたことで、竇太后は激怒し、趙綰・王臧の不正を探し出して皇帝を責めた。
  • 武帝は明堂計画その他の新政を中止し、趙綰・王臧を下吏に付した。二人は自殺し、竇嬰・田蚡もまた免官となり、申公も病を理由に帰郷した。

万石君石奮の家風

  • 景帝の時代、太子太傅の石奮とその四人の子がみな二千石となったため、その家は「万石君」と呼ばれていた。
  • 石奮自身には文章学術こそなかったが、恭慎で他に比べる者がなかった。子孫が下僚として帰ってくると、必ず朝服で対面し、名前を呼び捨てにしなかった。
  • 子孫に過失があっても直ちに叱責せず、別座に退いて食を断ち、家人が互いに責めてから、年長者が肉袒して謝罪し、改悔を示して初めて許した。
  • 成人した子孫がそばにいるときは、ふだんの居室でも必ず冠を着け、喪にあっては深く哀しんだ。その家風のため、子孫は孝行と謹慎で郡国に聞こえた。
  • 趙綰・王臧が学問をもって立ちながら罪に落ちたのを見て、竇太后は儒者は文が多く実が少ないと考えた。これに対し、万石君の家は多弁でなく躬行することを重んじるとして、その長子石建を郎中令、少子石慶を内史に任じた。
  • 石建は人を避けて進言すれば切実でありながら、公の場では口数が少なく見え、武帝に親しまれた。石慶は簡易で、かつて御車中の馬数を問われると、数え終えてから「六頭です」と答えたという。