資治通鑑漢紀九 世宗孝武皇帝 建元 二年 前139年

春二月 日食と丞相交代

  • 春二月丙戌朔、日食が起こった。
  • 三月乙未、太常で柏至侯の許昌が丞相に任じられた。

陳皇后の失寵と衛子夫の入宮

  • かつて堂邑侯陳午は館陶公主を妻とし、公主は武帝が太子となる際に大きな力を持った。そのため、公主の娘は太子妃となり、武帝即位後は陳皇后となった。
  • だが館陶公主はその功を頼んで請託を重ね、皇后も驕慢で嫉妬深く、寵愛を専らにしながら子がなかった。医術や祈祷に巨額を費やしても効果はなく、次第に寵が衰えた。
  • 皇太后は武帝に対し、即位早々に明堂問題で太皇太后を怒らせ、今また長公主に背けば重ねて非難を受けると戒め、ひとまず公主と皇后への礼遇を回復させた。

覇上・平陽公主家と衛氏の進出

  • 武帝が覇上で禊を行い、帰途に姉の平陽公主の家に立ち寄った際、歌い女の衛子夫を気に入り、公主はこれを宮中に献じた。
  • 子夫の母の衛媼はもと公主家の家人であり、子夫は入宮後、日ごとに寵愛を増した。陳皇后はこれを聞いて憤激し、しばしば死にそうになるほどであった。
  • 衛子夫の同母弟の衛青は、父の鄭季が平陽県吏として侯家に仕えた際に衛媼と私通して生まれた子で、衛氏を冒姓していた。
  • 衛青は成長して侯家の騎奴となっていたが、大長公主に捕らえられて殺されかけた。これを友人の公孫敖が壮士とともに奪い返した。
  • 武帝はこのことを知ると衛青を召して建章監兼侍中とし、短期間に千金にも達するほどの賞賜を与えた。やがて衛子夫は夫人となり、衛青は太中大夫に進んだ。

夏四月 異変と茂陵邑

  • 夏四月、夜に太陽のような星が現れる異変があった。
  • 初めて茂陵邑が置かれた。

諸侯政策への反省

  • 当時の大臣や議者の中には、晁錯の諸侯削弱策は行き過ぎであったと考える者が多かった。
  • そこで、諸侯王の過失をことさらに暴き立て、家臣を笞打って王の罪を証言させるような、きびしすぎる追及は避けようという傾向が強まり、諸侯王たちは深い怨みを抱いていた。