資治通鑑漢紀九 世宗孝武皇帝 建元 三年 前138年
冬十月 諸侯王の来朝と中山王勝の訴え
- 冬十月、代王登・長沙王発・中山王勝・済川王明が来朝した。
- 酒宴の席で中山王勝は音楽を聞いて涙を流した。武帝が理由を問うと、長く胸に積もった悲しみのため、哀切な音を聞くと涙が抑えられないのだと答えた。
- さらに勝は、自分たちは皇室の肺附として東方の藩屏を務め、しかも皇帝の兄と呼ばれる立場であるのに、群臣は皇族との親しみも重みもないまま朋党を組み、宗室をしりぞけ、骨肉の情を氷解させていると訴えた。
- また、役人が諸侯国に加える侵害の実情を述べたため、武帝は諸侯への礼遇を厚くし、有司が奏上する諸侯関係の案件を減らし、宗親を親しむ恩を加えた。
平原の洪水と飢饉
- 河水が平原にあふれ、大飢饉となり、人が人を食うほどの惨状に至った。
秋七月 星孛と済川王明の廃位
- 秋七月、西北に彗星が現れた。
- 済川王明は中傅を殺した罪で廃され、房陵へ遷された。
閩越の東甌侵攻と救援論争
- 七国の乱の際に呉王の子駒は閩越へ逃れており、父を殺した東甌を恨んで、たびたび閩越王に東甌攻撃を勧めていた。ついに閩越は兵を発して東甌を包囲した。
- 東甌は急を告げ、武帝は田蚡に意見を求めた。田蚡は、越人が互いに攻め合うのは常であり、しばしば背反するので、中国が煩わされて救うほどのものではないと答えた。
- これに対し荘助は、救う力や覆う徳がないことを憂うべきで、小国が窮して救援を請うのに天子が応じなければ、どこに訴えればよいのか、万国の父としての道に背くと主張した。
- 武帝は田蚡を「ともに計るに足りない」とし、虎符を出して郡国の兵を動かすことは避けつつ、荘助に節を持たせ、会稽で兵を発させた。
- 会稽太守は正式な兵符がないことを理由に拒もうとしたが、荘助は司馬一人を斬って天子の意を示し、ついに海路で兵を出した。
- 漢軍が到着する前に閩越は囲みを解いて去り、東甌は国を挙げて内徙を願ったため、その民衆は江淮の間へ移された。
九月晦 日食と文学材智の士の抜擢
- 九月丙子晦、日食が起こった。
- 武帝は即位以来、天下の文学・材智の士を広く求め、常格にこだわらぬ地位で遇した。そのため四方から得失を論じる上書が数多く集まり、自薦して売り込む者も千を数えた。
- その中で、荘助をはじめ、朱買臣・吾丘寿王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍らが近侍となり、しばしば大臣と弁論して、義理と文章で相手を屈服させた。
- ただし司馬相如は主に辞賦で寵を得たにすぎず、東方朔・枚皋は議論に根拠が乏しく、諧謔を好んだため、武帝は彼らを俳優のように扱い、しばしば賞しても重職には用いなかった。もっとも東方朔は時に顔色を見て直諫し、多少の補益はあった。
武帝の微行
- この年から武帝はしばしば微行を始めた。北は池陽、西は黄山、南は長楊、東は宜春まで遊猟し、左右の騎射に巧みな者を殿門に待機させた。これが期門の始まりである。
- 多くは夜に出て自ら平陽侯と称し、明け方には南山のふもとで鹿・猪・狐・兎を射た。農地を踏み荒らすので、民は大声で罵った。鄠・杜の令が捕らえようとしたこともあったが、乗輿のしるしを示して免れた。
- また、夜に柏谷の旅舎へ投宿して水を求めたところ、主人は盗賊と思って若者を集めて襲おうとしたが、老婦がただならぬ客と見抜き、主人を酔わせて縛り、難を避けた。武帝は翌日この老婦に千金を与え、その夫を羽林郎に任じた。
- その後、宣曲より南に更衣所を十二か所ひそかに設け、長楊・五柞などの宮へ夜ごと宿泊した。
上林苑拡張案と東方朔の諫言
- 武帝は道のりが長くて苦しく、また百姓に迷惑もかかるとして、吾丘寿王に命じ、阿城以南・盩厔以東・宜春以西の土地を調査し、田地の面積と価格を計らせた。これを上林苑に編入し、南山に接続させようとしたのである。
- さらに中尉・左右内史に命じ、属県の荒田を調べて、立ち退かせる鄠・杜の民への代地としようとした。寿王の奏上に武帝は大いに満足した。
- これに対し東方朔は、関中は天下の陸海であり、山川・鉱産・材木・農産に恵まれ、酆鎬の間は土膏と称されるほど肥沃だと述べた。
- そのうえで、良田と水利を奪って国家財政と農桑を損ねること、狐兎や虎狼の棲む荒地を広げて人の墓や家を壊すこと、騎馬や車の疾走のために深い溝渠を築いて危険を増すことの三点を挙げ、上林苑拡張に反対した。
- さらに、殷の九市宮、楚の章華台、秦の阿房宮を引き、豪奢な造営が国家の乱れを招いた前例として戒めた。
- 武帝はこの諫言を聞いて東方朔を太中大夫給事中に任じ、黄金百斤を賜ったが、結局は吾丘寿王の案どおり上林苑の造営を進めた。
司馬相如の諫め
- 武帝はまた自ら熊や猪を打つことを好んだため、司馬相如が上疏して諫めた。
- 相如は、猛獣に突然出会えば、たとえ勇士や名射手がいても手遅れになることがあり、枯木や朽株でさえ危険になると述べ、もし車列の足もとで変事が起きれば、胡越や羌夷が車のそばに迫るのと同じほど危ういと警告した。
- さらに、富者が堂の端に近寄らないという俗諺を引き、まして万乗の主たる天子が、万一の危険の道を娯楽として歩むべきではないと論じた。武帝はこれを善しとした。