資治通鑑漢紀九 世宗孝武皇帝 建元 六年 前135年
春二月・夏四月 宗廟・陵園の火災
- 春二月乙未、遼東の高廟で火災があった。各郡国に高祖廟が立てられていたため、遼東にもその廟があった。
- 夏四月壬子、高園の便殿が焼失した。武帝は素服して五日を過ごした。
五月 竇太皇太后の死
- 五月丁亥、太皇太后の竇氏が崩じた。文帝皇后として長く宮中に大きな影響を及ぼしてきた人物である。
六月 許昌罷免・田蚡が丞相に
- 六月癸巳、丞相の許昌が免官された。
- 武安侯田蚡が丞相となった。田蚡は驕奢で、屋敷を大々的に営み、邸第や田園も最上の土地を占めた。
- 郡県の物資を買い集める車馬が道に連なり、四方からの賂や贈り物、金玉・婦女・犬馬・音楽・珍玩が家にあふれた。
- 奏事では長時間にわたって座を占め、その発言はたびたび容れられた。推薦した人物が起家で二千石に至ることもあり、その権勢は主上をしのぐほどになった。
- 武帝はついに、「卿はもう官吏の任命をやり尽くしたか。朕も任命したい」と皮肉を言った。田蚡が考工の地を宅地に加えたいと願うと、武帝は「いっそ武庫まで取ったらどうだ」と怒り、以後田蚡はやや退いた。
秋八月 彗星と閩越の南越侵攻
- 秋八月、東方に長く天を横切る彗星が現れた。
- 閩越王郢が兵を起こし、南越の辺境を攻撃した。南越王胡は、天子との約束により勝手に挙兵できず、使者を送って武帝に告げた。
- 武帝は、南越が道義を守って自ら動かなかったことを評価し、大規模な出兵を決めた。大行の王恢を豫章方面へ、大農令の韓安国を会稽方面へ派遣して閩越を討たせた。
淮南王安の上書
- 淮南王安は上書して、この出兵に反対した。越は方外の地の剪髪文身の民であり、冠帯の国の法で治められるものではないとし、三代の盛時でも胡越を正朔の内に収めなかったのは、費用に見合わぬ土地と民だったからだと論じた。
- また、越は城郭も定住も乏しく、深山・竹林・険水に拠り、水戦に巧みで、中国の人には地勢も風土も不利であるから、地図上では近く見えても実際にはきわめて行き難いと述べた。
- さらに近年は不作が続き、民は売爵や子を質に出してようやく生活をつないでいるのに、今ここで数千里の遠征を行えば、兵糧輸送と水土の病で大きな犠牲が出ると警告した。
- 先例として、淮南王長の時代に南海王の反乱を討った簡忌の軍が、暑さと雨のため戦う前に多数病死し、遺体を千里の外から運び帰った悲惨を挙げた。
- 越は実際には陸戦に弱く、材木を伐って船を作り糧を積んでからでなければ動けないのだから、辺境の備えを厳重にして積聚を焼けば防げるとも論じた。
- もし処置が必要なら、殺された閩越王弟甲の後や絶えた国統を立て直し、印綬を与えて藩臣として畜養すれば、兵を一人も労せず威徳を及ぼせると主張した。
- さらに、秦が尉屠睢を遣わして越を攻めた際、長期駐屯で疲弊し、その騒擾が山東の乱の始まりとなったことを引き、兵を用いることは一方の変だけにとどまらぬと警告した。
- それでもこの時点で漢軍はすでに出発していた。
閩越王郢の殺害と東越・越繇の分立
- 漢軍が嶺を越える前に、閩越王郢の弟の餘善は、国相や宗族と謀り、郢は無断で南越を攻めたため天子の誅を招いたのだと論じた。今ここで郢を殺して謝罪し、許されれば国を全うし、許されなくとも海へ逃れればよいと説いた。
- 一同が賛成したため、餘善は郢を刺殺し、その首を大行王恢のもとへ送った。王恢は、もともと来た目的は王を討つことだったのだから、首が届いた以上、戦わずして目的を果たしたとして進軍を止め、韓安国軍にも伝えたうえで朝廷へ急報した。
- 武帝は両軍を罷め、「首悪は郢らにあり、無諸の孫の繇君丑は謀反に加わっていない」として、中郎将を遣わし、丑を越繇王に立てて閩越の先祖祭祀を継がせた。
- しかし餘善はすでに郢を殺して威を国中に振るっており、多くの民がこれに従ったため、自らひそかに王を称した。越繇王丑は制御できなかった。
- 武帝は、餘善のために再び大軍を起こすのは得策でないとし、郢の乱に関与したとはいえ最後には自ら誅して漢軍を労させなかったとして、餘善を東越王に立て、越繇王と並立させた。
南越への伝達と胡の不入朝
- 武帝は荘助を遣わして南越へ意向を伝えさせた。南越王胡は、天子が自分のために兵を動かして閩越を討ってくれたのだから、死んでも報いきれないと述べ、太子の嬰斉を宿衛として入朝させた。
- 胡自身も入朝の支度をすると荘助に語ったが、助が淮南を経て帰った後、南越の大臣たちはこれに強く反対した。かつて先王が、天子に事える以上礼を失ってはならぬが、使者の甘言に乗って入朝しては帰国できず、亡国に至ると戒めていたからである。
- 胡は病と称して、ついに入朝しなかった。
韓安国・汲黯の登用
- この年、韓安国が御史大夫となり、東海太守であった濮陽の汲黯が主爵都尉となった。
- 汲黯はもと謁者として厳格で人に憚られていた。東越相攻の際に現地視察を命じられたが、現地へは行かず、呉まで行って引き返し、越人同士の争いはその風俗であって、天子の使者を辱めるほどではないと復命した。
- また河内の火災視察を命じられたときは、家屋が接していたため延焼しただけで大事ではないとし、その途中で河南の貧民が水旱で苦しみ、父子相食むほどだと知ると、節を仮用して河南倉の粟を放出し、帰朝してから矯制の罪を請うた。武帝はその賢を認めて赦した。
- 東海太守としては、清静を好み、丞史に事務を任せ、大綱だけを押さえて細事を苛察せず、自身は病を理由に閨閣にこもることが多かったが、東海は大いに治まった。
- 主爵都尉となってからも、文法の細部に拘らず、大体を引き締める行政を行った。
汲黯の直諫
- 汲黯は性格が倨傲で礼が少なく、人の過ちを面前で折り、容赦しなかった。
- 武帝が文学の士を招くなか、あるとき仁義の政治を行おうとの意向を語ると、汲黯は、陛下は内に多欲を抱えながら外に仁義を施そうとしており、どうして唐虞の治を真似できようかと答えた。
- 武帝は黙して怒り、顔色を変えて朝を終えた。公卿はみな汲黯の身を案じたが、退朝後に武帝は「なんと頑愚な男だ」と言っただけであった。
- 人々が汲黯を責めると、彼は、公卿補弼の臣たるもの、迎合して主君を不義に陥れるくらいなら、位にある以上は身を惜しむより朝廷の辱めを避けるべきだと答えた。
- 汲黯が長く病んだとき、武帝はたびたび休暇を与えたが、なかなか癒えなかった。庄助がために請告すると、武帝は汲黯評を問うた。荘助は、通常の官職運営では特に人に勝るとは言えないが、幼主を補佐し、城を守るような大事においては、招いても来ず、追っても去らぬ、賁育でもその志を奪えぬ人物だと評した。武帝は、古の社稷の臣とはこのような者で、汲黯はそれに近いと言った。
匈奴との和親論
- 匈奴が和親を請うたため、武帝は群臣に議論させた。
- 大行王恢は、匈奴は和親しても数年で背約するのが常だから、認めずに討つべきだと主張した。
- これに対し韓安国は、匈奴は鳥のように移動して捕捉しがたく、太古以来「人」と同じ扱いをしがたい存在であり、漢が数千里の遠征で利を争えば、兵馬が疲弊したところを相手が万全の態勢で制することになるので危険だと論じた。
- 群臣の多くは韓安国に同調し、武帝は和親を許した。