冬十月 梁王への寵遇と竇嬰の失脚
- 梁王が朝見した際、景帝はまだ太子を立てておらず、宴席で「自分の死後は王に伝えることもありうる」といった趣旨を口にした。梁王は辞退したが、内心では喜び、竇太后も同じ思いだった。
- これに対し詹事の竇嬰は、高祖以来の天下は父子相伝が原則であり、梁王への継承は道理に反すると酒席で諫めた。これにより太后は竇嬰を憎み、竇嬰は病を理由に罷免され、宮中への出入りも禁じられた。梁王はこのことでいよいよ驕るようになった。
春正月 赦令と天変
- 赦令が出された。
- 西方に長星が現れ、また洛陽の東宮が火災に遭った。
呉王の怨恨と反乱計画の形成
- もともと文帝の時代、呉太子が長安で皇太子と博戯をして争いになり、皇太子に殺される事件があった。遺体が呉に送られると、呉王劉濞は「同じ宗室なら長安に葬ればよい」と言って受け入れず、これが朝廷への恨みの始まりとなった。
- その後、呉王は病と称して朝見を怠るようになり、朝廷は使者を取り調べた。文帝は最終的に過去を赦し、呉王に几杖を与え、老齢を理由に朝見を免除した。
- 呉は銅山と塩の利益で富み、民から租税を軽くし、更卒の負担まで肩代わりし、亡命者を匿って人心を集めた。そのため呉王の勢力は四十年以上にわたり大きくなった。
- 鼂錯はたびたび上書して呉の違法と危険を説いたが、文帝は寛大に処しなかったため、呉はますます横暴になった。
- 景帝が即位すると、鼂錯は諸侯の削地を進言し、呉は削っても反し、削らなくても反するが、今なら禍は小さいと説いた。公卿・列侯・宗室に諮っても反対する者は少なく、竇嬰だけが争ったため、両者は不和になった。
- 楚王戊・趙王・膠西王らにも削地処分が及び、呉王は次は自分だと恐れ、諸侯との連携を本格化させた。
呉と膠西・楚・趙らの結託
- 呉王は中大夫の応高を膠西王のもとへ送り、鼂錯が諸侯を削り続けており、呉と膠西はいずれ滅ぼされると説いた。さらに天変を引き合いに出し、今こそ兵を挙げれば天下を二分できると誘った。
- 膠西王ははじめ驚いたが、やがて同意した。呉王はなお不安に感じ、自ら赴いて盟約を固めた。
- 膠西王の家臣の中には、諸侯の力では漢に敵わず、太后を憂えさせるだけだと諫める者もいたが、王は聞き入れなかった。
- さらに呉王は斉・菑川・膠東・済南にも使者を送り、いずれも同意した。
楚王戊の暴政と反乱参加
- 楚元王の時代に厚遇された穆生は、王家が礼を失う微細な兆しを見て早々に去っていた。楚王戊の代になると、放縦で乱暴になり、諫める者も離れていった。
- 申公・白生が諫めても、楚王戊はかえって二人に屈辱を与えた。休侯富も諫めたが、王は逆に討とうとしたため、富は母とともに京師へ逃れた。
- 呉の会稽郡・豫章郡を削る命令が届くと、呉王は先んじて挙兵し、呉・膠西・膠東・菑川・済南・楚・趙が相次いで反した。楚・趙でも諫める重臣が殺されたり焼き殺されたりした。
- ただし斉王は後悔して城を守り、済北王は家臣に制されて兵を出せなかった。膠西・膠東が主導して菑川・済南とともに斉を攻め、臨菑を包囲した。趙王は西境で待機し、北では匈奴と連携しようとした。
呉楚七国の挙兵
- 呉王は六十二歳で自ら出陣し、十四歳の末子も兵卒に加え、国内の者を総動員して二十余万の兵を集めた。南方では閩越・東越にも出兵を求め、協力を得た。
- 呉軍は広陵から出て淮水を渡り、楚軍と合流した。諸侯には鼂錯の罪を列挙した文書を送り、共同して討つよう呼びかけた。
- 呉楚軍は梁を攻めて棘壁を破り、数万人を殺し、その勢いのまま進軍した。梁孝王の軍は敗れ、梁王は睢陽に籠城した。
朝廷の対応と周亜夫の起用
- 文帝が臨終の際に「急変あれば周亜夫が将兵に任じられる」と遺言していたため、景帝は中尉の周亜夫を太尉に任じ、三十六将軍を統率して呉楚討伐に向かわせた。
- 曲周侯酈寄には趙を、欒布には斉を討たせ、失脚していた竇嬰も大将軍として復帰させ、滎陽に駐屯して斉・趙方面を監督させた。
鼂錯と袁盎
- 鼂錯が法令を改めて諸侯を削ろうとしたとき、その父は潁川から来て、劉氏は安定しても鼂氏は危うくなると諫め、自害した。
- 呉楚七国が「鼂錯を誅する」を名目に反したため、景帝は鼂錯と軍事を議した。鼂錯はみずから留守を守り、皇帝が親征すべきとし、さらに徐・僮付近の地を呉に与える案まで口にしたため、かえって立場を危うくした。
- 鼂錯と旧怨のあった袁盎は、竇嬰を通じて召され、反乱は鼂錯の誅殺と旧地回復を求めているので、鼂錯を斬って赦せば兵を流血なく解けると説いた。
- 景帝はこれを採り、丞相青・中尉嘉・廷尉欧らに鼂錯を弾劾させ、大逆無道として東市で斬らせ、その一族も処刑した。鼂錯自身は不意に召し出されて殺され、事前には知らなかった。
鄧公の諫言
- その後、鄧公が前線から戻って景帝に会い、鼂錯を殺しても呉楚は止まらない、彼らは何十年も前から反意を抱いていたと述べた。
- さらに、鼂錯は諸侯の強大化を防ぎ京師を尊ぶために削地を進めたのであり、それが国家の長久の利益だったのに、始めた本人を誅したことで、忠臣の口を塞ぎ、諸侯に仇討ちをさせた形になったと諫めた。
- 景帝はこれを聞き、後悔の意を示した。
袁盎の危機と周亜夫の戦略
- 袁盎は徳侯劉通とともに呉へ使わされたが、呉王はすでに梁を攻めており、「自分は東帝だ」と称して詔を拝受せず、袁盎を拘束して殺そうとした。袁盎はすきを見て逃げ帰った。
- 周亜夫は、楚兵は軽捷で正面決戦には向かず、梁は見捨ててでも呉楚の補給路を断つべきだと進言し、認められた。
- 出発時、趙渉は、呉が殽・澠の険路に伏兵を置いているはずだから、遠回りでも藍田から武関を抜けて洛陽に入るべきだと説いた。周亜夫はこれに従い、実際に殽・澠で伏兵を発見したため、趙渉を護軍に取り立てた。
- 周亜夫は昌邑に進み、梁からの再三の救援要請にも応じず、堅く壁を固めた一方、軽騎を淮泗口に出して呉楚の補給を断たせた。梁では韓安国・張羽らが奮戦し、なんとか持ちこたえた。
呉楚軍の敗北
- 呉楚軍は下邑で周亜夫軍と対峙し、挑戦しても周亜夫は応戦しなかった。夜襲の騒ぎがあっても周亜夫は動じず、敵の主力の動きを見抜いた。
- 呉楚軍は食糧が尽き、兵は飢え、死者や離反者が続出した。二月、周亜夫は追撃して大破し、楚王戊は自殺した。
- 呉王劉濞は夜に数千人の壮士を率いて逃走した。かつて田禄伯や桓将軍が、別働隊で関中を衝く案や、洛陽・敖倉を先に押さえる案を出していたが、呉王は老将の意見を採って正面から梁楚方面に進み、この判断が敗因となった。
周丘の働き
- 呉王に軽んじられていた周丘は、漢の節を与えられると夜のうちに下邳に入り、令を斬って城中の豪吏を動かし、一夜で三万人を集めた。
- さらに北上して陽城まで勢力を広げ十余万に達したが、呉王敗走の報を聞くと、自身では成功を共にできないと判断して引き返した。
- 帰還途中、背に腫物ができて死んだ。呉王は人材を見抜きながら用い切れなかったことがうかがえる。
呉王の最期
- 二月晦日には日食があった。
- 呉王が軍を捨てて逃げると、その軍は総崩れとなり、多くが周亜夫軍や梁軍に降った。
- 呉王は丹徒から東越へ逃れ、残兵一万余を集めて立て直そうとしたが、漢は利益で東越を誘い、東越は呉王を労軍と偽って誘い出し、刺し殺した。首は駅伝で京師へ送られた。
- 呉太子駒は閩越へ逃げた。乱はおよそ三か月で平定され、諸将は周亜夫の戦略が正しかったと認めた。ただし梁王は、自分を救わなかった周亜夫を恨むようになった。
斉・膠西・趙・済北の結末
- 臨菑が三王に包囲された際、斉王は路中大夫を天子のもとに派遣した。帰路、三国軍に囲まれた路中大夫は脅されて「漢は敗れた」と伝える約束をさせられたが、城下では逆に「漢軍はすでに呉楚を破った。必ず持ちこたえよ」と大声で告げた。
- 斉は初めひそかに三国と通じていたが、最終的には降伏せず、欒布・平陽侯らの漢軍が到着して包囲を解いた。ところが後に内通の事実が発覚し、斉孝王は恐れて自殺した。
- 膠西王は裸足で敷藁の上に座り、水だけを飲んで謝罪したが、太子は奇襲再起を勧めた。王は兵がすでに崩壊して使いものにならないと退けた。
- 弓高侯韓頽当の書簡で、降れば旧国に復し、降らねば滅ぶと告げられると、膠西王は漢軍営に出頭して、鼂錯の専横を討つつもりだったと弁明した。しかし詔書を読み聞かされ、最終的に自殺した。太后・太子も死に、膠東王・菑川王・済南王も誅された。
- 酈寄は趙を攻め、趙王は邯鄲に籠った。七月になっても落ちなかったが、匈奴が呉楚敗北を知って侵入をやめると、欒布が斉から転戦して水攻めを行い、城が壊れて趙王も自殺した。
- 斉は脅迫されての関与で首謀ではないとされ、孝王の太子寿が後を継いで懿王となった。
- 済北王も自殺しようとしたが、公孫玃が梁王に働きかけ、済北は呉側に立ち切らず漢に利した面があると説いた。梁王がこれを奏上したため、済北王は死罪を免れ、菑川へ移封された。
論功と諸王の処置
- 河間王太傅の衛綰は、呉楚討伐で功を立てて中尉に任じられた。もとより慎み深い人物で、文帝からも景帝からも信任されていた。
- 夏六月、呉王らに誑かされて連座すべき民や、亡命・逃亡兵も含めて赦免された。
- 景帝は呉王の弟の子である徳侯通を呉の後継に、また楚元王の子礼を楚の後継にしようと考えたが、竇太后は呉王は宗室でありながら自ら乱の首謀者となったのだから、その家を続かせるべきでないと反対したため、呉は断絶し、楚だけが再興された。
- 同じ六月、淮陽王余を魯王に、汝南王非を江都王に移し、宗正の礼を楚王に立て、皇子の端を膠西王、勝を中山王に封じた。