冬十月 梁王来朝
- 梁王が朝見し、上書して長安への滞在延長を求めたが、景帝は許さなかった。
十一月 官名改正
- 廷尉・将作など、複数の官名を改めた。廷尉は大理、将作少府は大匠、典客は大行令、中尉は都尉などとなった。
春二月・三月 巡幸と異常気象
- 春二月、景帝は雍へ行幸し、五畤に郊祀した。
- 三月、雪が降った。
夏四月 梁孝王の死
- 梁孝王が死去した。
- 竇太后は悲しみのあまり食を断ち、「帝がわが子を殺した」と言ったため、景帝は恐れ嘆いた。
- 景帝と長公主は対策を相談し、梁国を五つに分け、梁王の五人の男子をそれぞれ梁王・済川王・済東王・山陽王・済陰王に立て、五人の女子にも湯沐邑を与えた。これを太后に示すと、太后は喜んでようやく食を取った。
梁王の遺産
- 梁孝王は生前、莫大な財を蓄えており、死後も蔵府には黄金四十余万斤が残っていた。他の財物も同様に巨額だった。
笞刑の再改革
- すでに笞刑は軽減されていたが、なお受刑者が助からないことが多かったため、さらに、笞三百を二百に、笞二百を百に減らした。
- あわせて箠の規格を定め、長さ五尺、太さ一寸、先端は半寸、節を削って平らにし、尻を打つこと、一つの罪ごとに執行者を交替することとした。
- このため笞刑で死ぬ者は減ったが、死刑が重く生刑が軽くなった結果、かえって人々が罪を犯しやすくなった面もあった。
六月 匈奴侵入と李広
- 匈奴が雁門から侵入し、武泉に至り、上郡では官の苑馬を奪った。吏卒の戦死者は二千人に及んだ。
- この時、隴西の李広は上郡太守で、百騎ほどを率いて出たところ、数千騎の匈奴に遭遇した。敵は誘兵だと疑って山上に布陣した。
- 部下が逃げ帰ろうとすると、李広は、逃げれば追射されて全滅する、今は大軍の誘いと思わせる方がよいと言い、敵陣二里の地点で下馬して鞍を解かせた。敵に逃げる意思がないと見せて、かえって疑心を強めたのである。
- さらに白馬の将を射殺して戻り、兵を落ち着かせたため、匈奴はついに手を出せず、夜半に漢の伏兵を恐れて撤退した。翌朝、李広は無事に本営へ帰還した。
秋七月 日食と寧成
- 七月晦日、日食があった。
- 郅都の死後、長安周辺の宗室が横暴に法を犯すことが多かったため、景帝は済南都尉の南陽人寧成を中尉に召した。
- 寧成の統治は郅都に似て厳しかったが、廉潔さでは及ばなかった。それでも宗室や豪傑たちは皆おそれ慎んだ。
城陽共王の死