資治通鑑漢紀 太宗孝文皇帝 前元 十六年 前164年

夏四月―渭陽五帝廟での郊祀

  • 文帝は渭陽五帝廟で五帝を郊祀した。
  • 新垣平を尊んで上大夫とし、累計千金を与えた。漢の官制には太中大夫・中大夫・諫大夫や爵位の大夫・五大夫は見えるが、「上大夫」は官制表に確認できない。
  • 博士・諸生に六経から資料を採取させて『王制』を作らせ、巡狩と封禅について議論させた。現在の『礼記』「王制」篇がこれに当たるとされる。
  • 長門道の北にも五帝壇を設けた。長門は長安城東南の亭で、後世の万年県北東の苑内に故址があったとされる。

諸侯王国の大規模再編

  • 淮南王劉喜を城陽王へ戻した。
  • 斉国を六分し、丙寅、斉悼恵王劉肥の存命の子六人を王に立てた。楊虚侯劉将閭を斉王、安都侯劉志を済北王、武城侯劉賢を菑川王、白石侯劉雄渠を膠東王、平昌侯劉卬を膠西王、扐侯劉辟光を済南王とした。
  • 淮南厲王劉長の存命の子三人について、阜陵侯劉安を淮南王、安陽侯劉勃を衡山王、陽周侯劉賜を廬江王とした。

秋九月―新垣平の奇瑞

  • 新垣平は人に玉杯を持たせて宮門へ献上させ、あらかじめ宝玉の気が来ていると文帝へ告げた。調べると「人主延寿」と刻んだ玉杯が献じられていた。
  • 新垣平はさらに太陽が一日に二度南中すると述べ、しばらくすると太陽が後退して再び南中したように見えた。
  • 文帝はこれを瑞祥として、翌年を改めて元年とし、天下に大酺を許した。大酺は、通常禁じられていた三人以上の集団飲酒を、慶事に際して特別に許可する制度である。

周鼎探索

  • 新垣平は、周の鼎が泗水で失われたが、黄河の決壊によって泗水と通じ、東北の汾陰付近に金宝の気が現れているため、鼎が出現する兆候だと述べた。
  • 兆候を迎えなければ鼎は現れないと進言したため、文帝は使者に汾陰南方の黄河沿岸で廟を造営させ、周鼎出現を祈らせた。