資治通鑑漢紀 太宗孝文皇帝 後元 元年 前163年
冬十月―新垣平の処刑
- 新垣平の言説がすべて詐欺だとの告発があり、文帝は司法官に取り調べさせ、新垣平とその一族を誅滅した。「夷」は家族・宗族まで平らげるように除く意である。
- 以後、文帝は正朔・服色の改定や鬼神への傾倒に熱心でなくなった。渭陽・長門の五帝祭祀は祠官に管理させ、定期の礼だけを行い、自ら赴かなかった。
春三月―孝恵皇后張氏の死
- 孝恵皇后張氏が死去した。張氏は張敖の娘で、諸呂誅滅後は北宮に移されていた。呂氏の一党と見なされたため、皇后の死に用いる「崩」と記されなかったという。
凶作と農業政策の再検討
- 文帝は、数年の不作、水旱、疫病について、自らの政治・行為の過失、天道・地利・人事の不調和、祭祀の廃絶、官吏の俸給、無用な支出など、どこに原因があるのかを丞相・列侯・二千石・博士に議論させた。
- 耕地面積に比べて人口が著しく増えたわけでもなく、一人当たりの土地は古代より余裕があるのに食糧が不足する理由として、末業に従って農業を害する者、穀物を酒に浪費する者、家畜へ与える穀物が多い可能性を挙げた。
- 百姓を救う策について、遠慮なく考えを述べ、隠し立てしないよう命じた。