資治通鑑漢紀 太宗孝文皇帝 後元 二年 前162年

夏―雍への行幸

  • 文帝は雍の棫陽宮へ行幸した。棫陽宮は秦昭王が建て、後世の岐州扶風県東北にあったとされる。「棫」は「ヨク」に近い。

六月―代孝王劉参の死

  • 代孝王劉参が死去した。劉参は前元二年に太原王となり、前元三年に代王へ移されていた。

匈奴との和親再開

  • 匈奴は連年辺境へ侵入し、多数の人民と家畜を殺害・略奪した。特に雲中と遼東の被害が大きく、一郡で一万人余りが被害を受けることもあった。遼東は戦国時代の燕の東北境で、秦が郡を置いた。
  • 文帝はこれを憂え、使者に国書を持たせて匈奴へ送った。単于も大当戸を使者として謝意を伝え、漢と匈奴は和親を再開した。大当戸は左右賢王以下、二十四長を構成する匈奴高官の一つである。

八月―張蒼罷免と申屠嘉の登用

  • 戊戌、丞相張蒼が罷免された。
  • 文帝は皇后の弟竇広国を賢明で品行がよいとして丞相にしようとしたが、私情による任用と見られることを恐れて断念した。高帝時代の旧臣で存命者を探したが、適任者が見つからなかった。
  • 御史大夫申屠嘉は梁国出身で、強弩を足で張る材官として高帝に従軍し、関内侯となっていた。庚午、丞相に任命され、故安侯に封ぜられた。

申屠嘉と鄧通

  • 申屠嘉は廉直で、私的な面会を受け付けなかった。
  • 太中大夫鄧通は文帝に寵愛され、賞賜は巨万に達し、文帝がその家で宴飲するほどであった。ある朝会で鄧通が文帝のそばにいて礼を怠ったため、申屠嘉は、臣下を富貴にするのは皇帝の裁量でも、朝廷の礼は厳粛に守るべきだと諫めた。
  • 文帝が自分で戒めると言ったが、申屠嘉は丞相府へ戻ると檄を出して鄧通を召し、来なければ斬ると命じた。檄は長さ二尺ほどの木札に記す公文書である。
  • 鄧通が文帝へ訴えると、文帝は心配せず行くよう命じ、後で召し戻すと告げた。鄧通は丞相府で冠を脱ぎ裸足となって額から血が出るまで叩頭したが、申屠嘉は礼を返さず、高帝の朝廷で小臣が戯れるのは大不敬であり、直ちに斬ると責めた。
  • 文帝は申屠嘉が十分に鄧通を懲らしめた頃を見計らい、節を持つ使者に鄧通を召させ、自分の弄臣なので許すよう丞相へ謝した。鄧通は戻ると、丞相に殺されかけたと泣いて訴えた。