資治通鑑漢紀 太宗孝文皇帝 後元 六年 前158年
冬―匈奴の大侵入
- 匈奴三万騎が上郡へ、別の三万騎が雲中へ侵入し、多数の人民を殺害・略奪した。烽火による警報は甘泉・長安まで達した。烽は高台上の装置に薪などを置き、敵襲時に火を上げて知らせるもの、燧は積み薪を燃やして煙で伝えるものと説明される。
- 中大夫令免を車騎将軍として飛狐に駐屯させ、旧楚の相である蘇意を将軍として句注に、張武を北地に置いた。
- 河内太守周亜夫を将軍として細柳に、宗正劉礼を覇上に、祝茲侯徐厲を棘門に駐屯させ、匈奴に備えた。
文帝の軍営巡視と周亜夫
- 文帝は自ら軍を慰労した。覇上・棘門の軍営では、天子の車がそのまま駆け入り、将以下が騎馬で送迎した。
- 細柳軍では、兵士・官吏が甲を着け、武器を研ぎ、弓弩をいっぱいに引いて警戒していた。天子の先駆隊が到着しても門は開かず、軍門都尉は「軍中では将軍の命令を聞き、天子の詔は聞かない」と答えた。
- 文帝自身が到着しても入れず、使者に節を持たせて慰労のための入営だと周亜夫へ詔した。ようやく門が開いたが、門兵は軍中で車を疾走させないという軍令を告げたため、文帝は手綱を抑えて徐行した。
- 周亜夫は武器を持ったまま揖礼し、甲冑を着た武人は拝礼しないので軍礼で謁見すると述べた。文帝は感動して容貌を改め、車の横木に身を伏せて敬意を示し、使者を通じて「皇帝は将軍を敬い慰労する」と告げて退出した。
- 群臣は驚いたが、文帝は、覇上・棘門の軍は児戯に等しく、将まで襲撃して捕虜にできるが、周亜夫は容易に侵せない真の将軍だと、長く称賛した。
- 一か月余りして漢軍が辺境へ到着すると匈奴は塞外遠くへ退き、漢軍も解散した。周亜夫は中尉に任命された。これは後に皇太子へ付属させる前段となる。
夏四月―旱魃と蝗害
- 大旱魃と蝗害が発生した。蝗は苗を食害する螽の類で、蝝とも呼ばれる。
- 文帝は諸侯からの貢納を停止し、山林・沢の禁を解いて民に利用させ、宮廷の衣服・器物を減らし、郎官・官吏の定員を削減した。
- 倉と庾を開いて民を救済し、民が爵位を売ることを認めた。庾は水運用の倉、あるいは屋根のない野外穀倉をいう。