資治通鑑漢紀 太宗孝文皇帝 後元 七年 前157年
夏六月己亥―文帝崩御
- 文帝は未央宮で崩御した。享年四十六とされる。
- 遺詔では、万物に死があるのは天地自然の理であり、過度に悲しむべきでないとした。当時は生を喜び死を嫌うあまり、厚葬で家産を破り、重い喪で生者を傷つけていると批判した。
- 自身の不徳を理由に、長期間の服喪や哭礼によって人々を寒暑にさらし、父子や老人を悲しませ、飲食と祭祀を妨げてはならないと述べた。
- 在位二十余年、天下が安寧で戦争もなかったことを天と社稷の助けとし、天寿を全うして高祖廟へ仕えられるのだから悲しむ必要はないとした。
- 詔が到着した地域では官民が三日間哭した後に喪服を解き、婚姻、祭祀、飲酒、肉食を禁じないよう命じた。葬儀担当者も裸足にならず、絰・帯は三寸を超えず、車や武器を布で覆わず、民を徴発して哭させないものとした。
- 宮殿で哭する者は朝夕それぞれ十五回声を上げ、礼が終われば退出し、それ以外の時間に勝手に哭することを禁じた。
- 下棺後は大功を十五日、小功を十四日、纖を七日着用して喪服を解くよう定めた。詔にない事項も、この原則に類推して処理させた。
- 覇陵は自然の山川をそのまま用い、改変しないよう命じた。また夫人以下、少使までの後宮女性を実家へ帰した。
乙巳―覇陵への埋葬
- 文帝を覇陵に葬った。
- 文帝は在位二十三年間、宮室、苑囿、車馬、衣服を増やさず、民に不便な禁令はたびたび解いた。
- 露台を造ろうとして工匠に費用を見積もらせたところ百金だったが、中程度の家十戸分の資産に当たるとして中止した。先帝の宮室を受け継ぐだけでも恥じ入るのに、新台は不要だと述べた。
- 自身は黒い粗絹を着て、寵愛する慎夫人にも裾を引きずる衣を着せず、帷帳に刺繍を施さず、質素の模範を示した。
- 覇陵の副葬品は瓦器だけとし、金銀銅錫で飾らず、山を利用して墳丘を築かなかった。古来、墓は造っても盛土を高くしないのが本来とされるが、漢の長陵は十三丈、陽陵は十四丈、安陵は三十余丈あったと伝えられる。
- 呉王が病気を偽って朝見しなくても几と杖を与え、袁盎らの諫言が切実でも寛容に受け入れた。張武らの収賄が発覚した際には、かえって賞賜を増して自省させた。
- 徳による教化を専らとしたため天下は安寧で、家々に財が行き渡り、人々が満ち足り、後世にこれへ及ぶ君主は少なかった。
丁未―景帝即位
- 皇太子劉啓が皇帝に即位した。漢では大斂後、三公が顧命を奏し、皇太子が柩前で即位する。太尉が冊書を読み、伝国璽綬を授け、群臣が万歳を唱えた後、再び喪服に戻る儀礼だったとされる。
- 皇太后薄氏を太皇太后、皇后竇氏を皇太后とした。皇帝の祖母を太皇太后、母を皇太后と呼ぶ。
九月―彗星
- 西方に彗星が現れた。「孛」は彗星を表し、「ボツ」に近く読む。
長沙国の断絶
- 長沙王呉著が子を残さず死去し、長沙国は廃止された。呉芮から成王劉臣、共王劉回、共王劉右を経て呉著に至って断絶した。『漢書』では名を「差」とする。
- 高祖は長沙文王呉芮の忠節を評価し、その地位を法令に明記させていた。異姓王である呉芮を特例として王にとどめる趣旨、また忠節を理由に車服・領地などを令へ記した趣旨と解される。
- 孝恵帝・高后の時代には呉芮の庶子二人も列侯に封ぜられ、その家は数代続いてから断絶した。