資治通鑑漢紀 太祖高皇帝 六年 前201年

楚王韓信への疑い

  • 項羽の旧将鍾離昧は、もとから楚王韓信と親しく、項羽の死後は韓信のもとへ身を寄せていた。帝はこれを怨み、楚に詔して鍾離昧を捕らえさせようとした。
  • 韓信は赴任後、国内の巡行に際して軍勢を整え威容を示していたため、朝廷では反意ありと疑う者が現れた。

冬十月 韓信反逆の告発と陳平の策

  • 冬十月、楚王韓信が反乱を企てているという上書が届いた。諸将はすぐ兵を発して坑殺すべきだと主張したが、帝は即断しなかった。
  • 陳平は、韓信がもし反意を知られていないなら、こちらから兵を向ければ逆に戦わせることになると述べた。韓信に兵の質でも将の能力でも勝てない以上、正面攻撃は危険だと論じた。
  • そこで古制にならい、南巡を装って雲夢へ行くふりをし、陳で諸侯を会させれば、韓信は変を疑わず郊外まで迎えに出るはずであり、その場で捕えるのがよいと献策した。

十二月 陳で韓信を捕える

  • 帝は諸侯に使者を出し、陳に会して自分は南遊して雲夢へ赴くと告げた。
  • 韓信は不安を抱き、ある者に勧められるまま鍾離昧を斬ってその首を持参し、帝に謝罪しようとした。
  • 十二月、帝が陳で諸侯と会すると、韓信は鍾離昧の首を奉って参上したが、帝はその場で武士に命じて縛らせ、後車に載せた。
  • 韓信は「狡兎が死ねば走狗は煮られ、高鳥が尽きれば良弓はしまわれ、敵国が破れれば謀臣は亡ぶ」と嘆いた。帝は、反乱の告発があったからだと答え、械でつないで洛陽へ連行した。
  • その機会に天下に恩赦も行われた。

田肯の祝いと「東西の秦」

  • 田肯は、韓信を得たことに加え、関中を押さえたのは大きな勝利だと祝賀した。
  • 関中は山河に守られ、そこから諸侯へ兵を下すのは高所から瓶の水を傾けるようなものだと語った。
  • さらに、齊もまた海・河・泰山に囲まれ、広大で兵力豊かな「東の秦」と言うべき土地であり、親子兄弟のような近親者でなければ任せられないと説いた。帝はこれをよしとして褒賞した。

韓信を淮陰侯へ降格

  • 帝は洛陽へ帰ると、韓信を赦して淮陰侯に落とした。
  • 韓信は帝が自分の才能を恐れ嫌っていることを知り、しばしば病と称して朝会にも随行にも出ず、平素から不満げで、周勃・灌嬰らと肩を並べるのを恥じた。
  • 樊噲の家を訪れたとき、樊噲が臣としてひざまずいて迎えたにもかかわらず、韓信は退出後、こんな連中と同列になるとはと嘲った。
  • また帝との談笑では、帝は十万ほどの兵を率いるのが限度だが、自分は多ければ多いほどよいと答えた。ただし帝は兵そのものを率いるより、将を使うことに長けているので自分を制するのだと述べた。

功臣封侯の開始

  • 甲申、功臣たちに割符を分け与えて列侯に封じ始めた。
  • 蕭何は酇侯に封じられた。功臣たちは、自分たちは甲冑をまとって数十・数百戦したのに、蕭何は戦場の汗馬の労もなく文書事務を担っただけで上位に置かれるのは納得できないと不満を述べた。
  • 帝は、獣を追い殺すのは犬だが、犬を放って獲物の所在を示すのは人であるとして、諸将は「功狗」、蕭何は「功人」だと説明した。
  • 張良にも三万戸を選ばせようとしたが、張良は下邳で帝と会って以来の因縁を語り、留の一万戸だけで十分だとして留侯に封ぜられた。
  • 陳平は戸牖侯に封ぜられたが、自分の功ではなく魏無知の推挙のおかげだと辞したため、帝はその本を忘れぬ姿勢を賞し、魏無知にも恩賞を加えた。

同姓諸王の大封建

  • 天下がようやく定まり、帝の子や兄弟はまだ少なく若かった。秦が孤立して滅んだことを戒め、同姓の一族を広く封じて天下を鎮撫しようとした。
  • 春正月丙午、楚王韓信の旧地を分け、淮東五十三県を従兄の劉賈に与えて荊王とし、薛郡・東海・彭城の三十六県を弟の劉交に与えて楚王とした。
  • 壬子には、雲中・雁門・代郡の五十三県を兄の劉喜に与えて代王とし、さらに庶子の劉肥を齊王に立てて七十三県を統べさせた。齊語を話す民を齊に属させたともいう。

韓王信の移封

  • 韓王信は勇武の才はあったが、当初の領国は要地に近く強兵の集まる土地であったため、帝は太原以北に移して匈奴への備えを担当させ、都を晋陽に置かせた。
  • 韓王信は、匈奴の侵入が多く晋陽は辺塞から遠いとして、馬邑へ治所を移したいと願い出て、帝はこれを許した。

未封功臣の不安と雍歯封侯

  • まだ封侯が決まらない将吏が多く、日夜功を争って決着していなかった。ある日、帝が南宮の複道から諸将が砂地に群れて語っているのを見て、何を話しているのか張良に尋ねた。
  • 張良は、封じられたのは主に帝の故旧や親愛する者で、誅されたのは旧来の怨敵であるため、まだ封じられていない者たちは、自分は疑われて殺されるのではないかと恐れ、反乱を相談しているのだと指摘した。
  • 帝が対策を問うと、張良は、帝が最も憎み、群臣もそれを知る雍歯をまず封じれば、みな自分も封ぜられると安心すると進言した。
  • そこで帝は酒宴を設け、雍歯を什方侯に封じた。群臣は、雍歯ですら侯になれるのだから自分たちも大丈夫だと喜び、動揺は収まった。

元功の序列と蕭何第一

  • 列侯への封建がほぼ終わると、元功十八人の位次を定める議論が行われた。多くは曹参を第一としようとした。
  • これに対し、関内侯鄂千秋は、曹参の功は一時の戦功にすぎず、帝が敗走を繰り返した間も蕭何は関中を守り、兵員・糧食を絶やさず補給し続けたのであって、これは万世の功であると論じた。
  • 帝はこれを採用して蕭何を第一、曹参を次位とした。さらに蕭何に剣を帯びたまま殿に上り、朝見でも小走りせずともよいという特別の礼遇を与えた。
  • また鄂千秋にも安平侯の封を与え、その日、蕭何の父子兄弟十余人にも食邑が与えられ、蕭何にはさらに二千戸が加増された。

夏五月 太上皇の尊号

  • 帝は櫟陽へ帰り、夏五月丙午、父を太上皇として尊んだ。

匈奴冒頓の台頭

  • 秦の強盛時、匈奴は北へ退いていたが、秦が滅ぶと再び南へ進出した。頭曼単于には冒頓という太子がおり、のちに寵姫の子を立てようとして冒頓を月氏に人質として送った。
  • その直後に頭曼は月氏を攻め、冒頓を殺させようとしたが、冒頓は名馬を奪って逃げ帰り、その胆力を認められて一万騎を与えられた。
  • 冒頓は鳴鏑を用いて軍令への服従を試し、まず自分の名馬、ついで愛妻、最後に頭曼の名馬を射させ、従わぬ者を次々に斬った。
  • やがて狩猟の際、鳴鏑を頭曼に向けて放つと、部下たちも一斉に射て頭曼を殺し、冒頓は後母・弟・不服の大臣らを誅して自ら単于となった。

東胡・月氏・楼煩の征服

  • 東胡は冒頓の新立を見て侮り、まず名馬を、次いで閼氏を求めた。冒頓はいずれも隣国との関係を理由に与えた。
  • さらに両国の間の空地を要求されると、群臣には与えてもよいと言う者もいたが、冒頓は土地は国の本だとして激怒し、その発言者を斬った上で東胡に急襲をかけ、これを滅ぼした。
  • 続いて西では月氏を打ち破り、南では楼煩・白羊・河南王を併合し、蒙恬に奪われていた旧領をすべて回復した。漢の境界は朝那・膚施に接するところまで後退した。
  • 当時、漢は項羽との戦争で疲弊していたため、冒頓は控弦の士三十余万を擁する大勢力へ成長し、諸国を威服させた。

秋 韓王信の降匈奴と太原侵攻

  • 秋、匈奴は馬邑の韓王信を包囲した。韓王信は何度も使者を匈奴に送り和議を求めたため、漢は内通を疑った。
  • 朝廷から責められると、韓王信は処罰を恐れ、九月、馬邑をもって匈奴に降った。
  • 冒頓はそのまま南下して句注を越え、太原を攻めて晋陽にまで達した。

宮廷礼制の整備を叔孫通に命じる

  • 帝は秦の煩瑣な威儀法令を取り払い簡易を好んだが、群臣が酒宴で功を争い、酔えば妄りに叫び、剣を抜いて柱を打つこともあったため、これを嫌った。
  • 叔孫通は、儒者は進取には向かないが守成には役立つとして、魯の諸生と自分の弟子たちで朝儀を整えたいと申し出た。
  • 帝は難しくならないかと懸念したが、叔孫通は古礼を取りつつ秦の制度も交え、帝が実行できる程度に整えると答えた。
  • 魯から招かれた諸生のうち二人は、天下が定まったばかりで礼楽を起こす時ではないと拒み、叔孫通を時勢に迎合する人物と非難した。叔孫通は彼らを「時変を知らぬ鄙儒」と笑って去った。
  • 叔孫通は入関後、学者や弟子百余人とともに野外に茅と縄で標識を立て、礼の次第を一か月以上稽古させた。帝に試させると、帝は実行できると認め、群臣にも習わせた。