資治通鑑漢紀 太祖高皇帝 七年 前200年

冬十月 長楽宮で朝賀の礼成る

  • 冬十月、長楽宮が完成した。諸侯と群臣はみな朝賀に参じた。
  • 謁者が夜明け前から礼を整え、諸侯王以下六百石以上の官が順に殿門へ進み、衛士は殿の階の左右と庭中に兵を執って整列した。
  • 皇帝が警蹕の声のうちに輦で出御すると、諸臣は強い緊張のもとで礼を行い、礼が終わると法にかなった節度ある酒宴が開かれた。
  • もし礼に外れた者があれば御史がただちに引き出したため、宴の終わりまで誰一人として喧嘩や乱行をしなかった。
  • 帝はこのとき、皇帝の尊さを初めて本当に知ったと語り、叔孫通を太常に任じ、金五百斤を賜った。

礼制についての論評

  • 叔孫通が作った朝儀は、秦の礼制を多く受け継ぎつつ、古礼を加減して実施しやすく整えたものだった。
  • その記録は律令とともに法官に蔵され、民間の儒者には伝わりにくくなった。
  • 司馬光は、礼は身・家・郷・国・天下の秩序を整える重大な道であるのに、叔孫通はその精髄ではなく表層だけを取り入れて時俗に合わせたと厳しく評している。

韓王信討伐

  • 帝はみずから出征し、韓王信の軍を銅鞮で破って、その将の王喜を斬った。
  • 韓王信自身は匈奴へ逃れた。
  • 白土の人である曼丘臣・王黄らは、趙の末裔である趙利を立てて王とし、韓王信の散兵を集めて、匈奴と結んで漢を攻める計画を進めた。
  • 匈奴は左右賢王に各一万余騎を与え、王黄らとともに広武以南から晋陽に至る方面へ布陣させた。
  • 漢軍がこれを撃つと匈奴はしばしば敗走したが、すぐまた集結した。漢軍は勝ちに乗じて深追いした。

厳寒の中の北征と劉敬の諫め

  • この遠征は酷寒と雪の中で行われ、多くの兵が指を失うほどであった。
  • 帝は晋陽にあって、冒頓が代谷にいると聞き、匈奴を偵察させた。冒頓は強兵と肥えた牛馬を隠し、老弱とやせた家畜だけを見せた。使者たちは十度来ても皆「撃つべし」と報告した。
  • 帝はさらに劉敬を派遣したが、劉敬は、敵国が交戦前にわざと弱みだけを見せるのは、伏兵で利を争うために違いないとして、攻撃不可と判断した。
  • ところが漢軍三十二万はすでに進発しており、帝は劉敬を「口舌で官を得た斉の者」と罵り、軍心をくじく妄言だとして広武で拘束した。

白登の囲み

  • 帝は先鋒として平城に進んだが、大軍がそろう前に、冒頓は精兵四十万騎をもって白登山周辺で帝を包囲した。包囲は七日に及び、内外の漢軍は互いに救援・補給できなかった。
  • 陳平は秘密の策を用い、厚い贈り物を閼氏に届けて働きかけた。閼氏は、漢の地を得ても単于は長く保てず、しかも漢主には神霊の加護があるようだから深追いすべきでないと冒頓に勧めたという。
  • また冒頓は王黄・趙利と期していた兵が来ないのを疑い、漢と内通したのではないかと考えた。

包囲脱出

  • 匈奴は包囲の一角を解いた。ちょうど大霧が立ちこめ、漢の使者の往来も匈奴には分からなかった。
  • 陳平は、強弩に二本の矢をつけて外向きに構えさせ、解けた一角へ向かってまっすぐ突破するよう請うた。
  • 帝は包囲を抜け、急いで逃げ出したいところを太僕の滕公が強く諫め、むしろ徐々に進んで平城へ入った。そこへようやく漢の大軍も到着し、匈奴の騎兵は包囲を解いて去った。
  • 漢軍も戦役を切り上げて帰還し、樊噲を残して代地の鎮定に当たらせた。

劉敬の赦免と陳平の加封

  • 帝は広武に戻ると劉敬を赦し、自分がその言を用いなかったため白登で苦境に陥ったのだと認めた。先に匈奴を軽んじる報告をした使者十人はすでに斬っていたという。
  • 劉敬には二千戸を与えて関内侯とし、建信侯の号を賜った。
  • 帝は南へ帰る途中、曲逆を通ってその豊かさを称え、陳平を曲逆侯に改封し、その地をすべて食邑とした。陳平がたびたび奇策を献じるたびに加増されていたのである。

趙王張敖への侮辱

  • 十二月、帝が帰途に趙を過ぎると、趙王張敖は婿としての礼で恭しく仕えたが、帝は足を投げ出して傲慢に罵った。
  • 趙の相の貫高や趙午らは激怒し、王に対して、帝を殺して恥を雪ぐべきだと勧めた。
  • 張敖は指を噛んで血を流し、自分の国が滅びたのを帝のおかげで再興できたのだから、その恩は子孫にまで及ぶ、決してそのような言葉を口にしてはならないと誓って拒絶した。
  • それでも貫高らは、王は長者で恩に背かないが、自分たちは辱めを黙って見ていられないとして、成功しても王の手柄、失敗しても自分たちだけが罪を負うつもりで陰謀を進めることにした。

代王の更迭と如意の封立

  • 匈奴は代を攻め、代王劉喜は国を棄てて自ら帰還した。帝はこれを赦して郃陽侯に降封した。
  • 辛卯、皇子劉如意を代王に立てた。のちに趙王へ移される人物である。

春二月 長安帰還と未央宮

  • 春二月、帝は長安に至った。蕭何は未央宮を造営していた。
  • 帝はその壮麗さを見て、天下はなお動揺し、数年の苦労の末に成敗もまだ確定したとは言い切れないのに、どうしてここまで過度の宮室造営をするのかと怒った。
  • 蕭何は、天下がまだ安定しない今だからこそ一気に宮室を整えることができるのであり、また天子は四海を家とするのだから、壮麗さがなければ威厳を重んじさせることができず、後世にこれ以上を加えさせぬためでもあると弁明した。帝はこれを聞いて喜んだ。
  • 司馬光は、王者の威厳は仁義と道徳によるべきで、宮室で天下を鎮めるものではないと批判し、蕭何の言は奢侈の端緒を開いたと論じている。

長安遷都と宗正設置

  • 帝は櫟陽から正式に長安へ都を移した。以前に関中遷都を決めてはいたが、都城整備が整っていなかったため、今ようやく本格的に移ったのである。
  • あわせて宗正官を初めて置き、皇族・同族九族の序列と統属をつかさどらせた。

夏四月 洛陽行幸

  • 夏四月、帝は洛陽へ行幸した。