資治通鑑秦紀三 二世皇帝下 三年 前207年

冬十月 田都離反、沛公は成武で勝つ

  • 斉将田都は田栄を離れて楚の趙救援に加わった。
  • 沛公は東郡尉を成武で破った。

宋義、進軍をためらう

  • 宋義は安陽まで進んだが、四十六日も軍を留めて渡河しなかった。
  • 項羽は、秦が趙を急攻している以上、ただちに河を渡って外から秦を撃ち、趙と挟撃すべきだと主張した。
  • しかし宋義は、今は秦と趙を戦わせて秦軍が疲弊するのを待ち、その後に西進すれば秦を一挙に取れると論じた。
  • さらに自分は謀略に長け、甲冑を着て先頭に立つ武勇では項羽より劣るが、計略では勝ると誇ったうえ、軍中に強暴で命に従わぬ者は斬ると命じた。
  • 宋義は子の宋襄を斉の相にするため、自ら無塩まで送って大宴会を開いたが、兵は寒雨の中で飢え凍えた。
  • 項羽は、国難の時に士卒をいたわらず私情を優先しているとして、宋義を社稷の臣ではないと非難した。

十一月 項羽、宋義を斬る

  • 十一月の朝、項羽は宋義の幕中に入り、その首を斬って軍中に示した。
  • そして、宋義は斉と結んで楚に叛こうとしていたので、楚王の密命により自分が誅したのだと布告した。
  • 諸将はみな恐れて従い、項羽を仮の上将軍として推戴した。
  • 項羽は人をやって宋義の子を追わせ、斉でこれを殺した。
  • 懐王も結局、項羽を正式な上将軍に任じた。

十二月 沛公、諸軍を併合して西進

  • 沛公は栗で剛武侯と会い、その兵四千余を取り込んだうえ、魏将皇欣・武満の軍と合同して秦軍を破った。
  • 旧斉王建の孫田安は済北を平定し、項羽の趙救援に従った。

鉅鹿の危急

  • 章邯は王離に兵糧を送るため、河に連なる甬道を築いた。
  • 王離は兵糧を多く持ち、鉅鹿を急攻した。城内では食糧が尽き、兵も少なく、張耳は何度も陳餘に前進救援を求めた。
  • 陳餘は兵力不足で秦に敵せぬと見て進めず、数か月に及んだ。
  • 張耳は怒って張黶・陳沢を遣わし、かつて刎頸の交わりを結んだ仲なのに見殺しにするのかと責めた。
  • 陳餘は、自分が共死しないのは将来、趙王と張耳のために秦へ報復するためであり、今は兵を全滅させるだけだと弁明した。
  • しかし責め立てられて、試みに五千人を出して秦軍に当てたところ、みな戦没した。
  • 斉・燕の援軍や張敖の代兵も到着していたが、いずれも陳餘のそばに陣するのみで、あえて秦軍に当たろうとはしなかった。

項羽、鉅鹿で諸侯を圧倒する

  • 項羽はまず当陽君蒲将軍に兵二万を率いさせて渡河させ、鉅鹿救援に向かわせ、章邯の甬道を断った。戦果は小ながら、王離軍の兵糧不足が始まった。
  • 陳餘がさらに援軍を求めると、項羽は全軍を率いて河を渡り、船を沈め、釜甑を壊し、陣屋を焼き払い、三日分の糧だけを持たせて、必死の決戦を示した。
  • 項羽軍は王離を包囲し、秦軍と九度戦って大破した。
  • 章邯は軍を退け、そこでようやく諸侯軍も前進できた。
  • 楚軍は蘇角を殺し、王離を捕虜とし、渉間は降らずに焼身自殺した。
  • この戦いで楚兵は諸侯軍中でも最強となり、城壁から戦いを見ていた諸侯の将たちは、楚兵の一人が十人に当たる勢いと轟く鬨の声に震え上がった。
  • 項羽が諸侯の将を召し入れると、彼らはみな膝で進んで顔も上げられず、ここに項羽は名実ともに諸侯の上将軍となった。
  • その結果、趙王歇と張耳もようやく鉅鹿城から出ることができた。

張耳・陳餘、ついに離反

  • 張耳は陳餘に、救援に来なかったこと、また張黶・陳沢の所在について問い詰め、二人を陳餘が殺したのではないかと責め続けた。
  • 陳餘は、そこまで自分を怨むとは思わなかったと怒り、将印を解いて張耳に投げ与えた。
  • 張耳は驚いて受けなかったが、側近に天与の機を逃すなと勧められてこれを受け、麾下の兵も吸収した。
  • 陳餘は張耳が辞退しなかったことを恨み、数百人の親しい部下だけを率いて河畔の沢に去り、漁猟して暮らした。
  • 趙王歇は信都へ戻った。

春二月 沛公、彭越を従える

  • 沛公は北上して昌邑を攻め、その途中で彭越に出会い、その兵を従えた。
  • 彭越はもと鉅野沢の群盗で、少年たちに強く推されて頭領となった。
  • 就任早々、集合時刻に遅れた者を厳刑に処し、笑っていた者たちを震え上がらせたため、統率が定まった。
  • こうして千余人を得て沛公に協力し、昌邑を攻めたが、城はなお落ちなかった。

酈食其、陳留を献ず

  • 沛公は西へ進んで高陽を過ぎた。そこに郦食其という、貧しいが気骨ある里門番がいた。
  • 彼は、これまで通っていった諸侯の将はいずれも小才で礼法にこだわるばかりだが、沛公は大略があり従うに足ると見た。
  • 沛公はふだん儒者を嫌い、儒冠を辱めるほどだったが、郦食其は意に介さず面会を求めた。
  • 沛公が女に足を洗わせたまま尊大に会うと、郦食其は、秦を討つつもりなら長者に対してこの態度はふさわしくないと諫めた。
  • 沛公は態度を改めて上座に請じ、謝罪した。
  • 郦食其は、陳留は天下の往来の要衝で穀物も多い、自分は県令と親しいから説得して降せると言った。
  • 沛公はこれに従い、郦食其を先行させて後から軍を進め、陳留を手に入れた。
  • 沛公は郦食其を広野君と号し、その弟の郦商も四千人を率いて来たので将とした。以後、郦食其は諸侯への説客として活動した。

三月 沛公、楊熊を破る

  • 沛公は開封を攻めたが抜けず、西進して秦将楊熊と白馬で戦い、さらに曲遇東でも戦って大破した。
  • 楊熊は滎陽へ逃げたが、二世は使者を送ってこれを斬り、見せしめにした。

夏四月 南陽へ向かう

  • 沛公は南へ向かい、潁川を攻めてこれを屠った。
  • 張良の関係もあって韓地の攻略も進めた。
  • 当時、趙の別将司馬卬は河を渡って関中へ入ろうとしていた。
  • 沛公は北上して平陰を攻め、河津を断ち、ついで洛陽東で戦ったが不利で、南へ出て轘轅道を通った。
  • 張良は沛公に従い、韓王成には陽翟守備を命じて、みずから沛公とともに南へ進んだ。

六月 沛公、南陽守を降す

  • 六月、沛公は犨東で南陽守齮と戦ってこれを破り、南陽郡を席巻した。
  • 南陽守は宛城にこもった。
  • 沛公は当初、宛を素通りして急いで関中に入ろうとしたが、張良は、宛を残せば背後から挟撃される危険があると諫めた。
  • そこで沛公は夜中に別道から引き返し、旗を伏せて夜明け直前に宛城を三重に包囲した。
  • 南陽守は自害しようとしたが、舎人陳恢が、今死ぬには及ばず、降伏してそのまま守らせれば、他城も争って降るだろうと進言した。
  • 沛公はこれを受け入れ、秋七月、南陽守齮は降伏し、殷侯に封じられ、陳恢も千戸に封ぜられた。
  • 以後、西へ進む沛公の前に城はみな争って降った。

七月 丹水から武関方面へ

  • 沛公は丹水に至り、高武侯鰓・襄侯王陵の降伏を受けた。
  • その後、胡陽を攻めて番君の別将梅鋗と出会い、ともに析・酈を攻めて降した。
  • 沛公軍は通過地で略奪を禁じたため、秦の民はみな喜んだ。

王離敗死後の章邯・項羽

  • 王離軍が壊滅したあと、章邯軍は棘原に、項羽軍は漳水南岸に陣し、しばらく対峙した。
  • 秦軍がしばしば退くので、二世は人をやって章邯を責めた。
  • 章邯は長史司馬欣を咸陽へ送って相談させようとしたが、司馬門で三日待たされ、趙高が会おうとしなかった。
  • 司馬欣は趙高が自分たちを信用していないと知り、帰路も本道を避けて逃げ帰った。趙高が追手を出したが間に合わなかった。
  • 司馬欣は章邯に、趙高が朝廷を専断していて、勝っても妬まれ、負ければ死罪だと報告し、熟慮を促した。

陳餘、章邯に離反を勧める

  • 陳餘もまた章邯に書を送り、秦では白起も蒙恬も大功を立てて結局は殺された、今や趙高は自らの責任逃れのために章邯を法で処して別人に代えようとしている、と説いた。
  • そして、秦はすでに天命を失っているのだから、諸侯と連合して秦を攻め、土地を分けて王となる方が、処刑され妻子まで滅ぼされるよりはるかによいと勧めた。
  • 章邯は疑い迷い、ひそかに侯始成を項羽のもとへ使って約を結ぼうとした。

項羽、漳南・洹水方面で章邯を屈服させる

  • 約定が整わぬうちに、項羽は蒲将軍に昼夜兼行で三戸を渡らせ、漳南で秦軍と二度戦って破った。
  • 次いで自ら全軍を率いて汙水のほとりで大破した。
  • 章邯はついに使者を送って項羽に和を求めた。
  • 項羽は軍吏に相談し、兵糧が乏しいので和議に応じることにした。
  • 両者は洹水南、殷墟の地で会盟した。
  • 章邯は項羽に会って涙を流し、趙高の専横を訴えた。
  • 項羽は章邯を雍王に立て、秦軍を楚軍中に置き、司馬欣を上将軍として前駆とした。
  • また、瑕丘の申陽は河南を平定して項羽に従った。

趙高、鹿を馬と言わせる

  • 趙高は秦権を独占するため、二世に鹿を献じて「馬です」と言った。
  • 二世が笑って左右に問うと、沈黙する者も、趙高に迎合して馬と言う者もいたが、鹿だと言った者は後で法にかけて密かに処罰された。
  • これ以後、群臣はみな趙高を恐れ、その過失を指摘できなくなった。

関東ほぼ失陥、沛公は武関を屠る

  • 趙高は以前から関東の盗賊は問題ないと述べていたが、王離らが敗れ、章邯も連敗すると、秦の支配地は関以東でほとんど失われ、各地の秦吏は諸侯に応じ、諸侯は一斉に西へ向かった。
  • 八月、沛公は数万を率いて武関を攻め落とし、これを屠った。

望夷宮の変と二世の死

  • 趙高は、二世が盗賊問題で自分を責めたため、やがて誅されるのを恐れた。
  • ちょうど二世は、白虎が左驂馬を噛み殺す夢を見て不吉がり、占わせると涇水の祟りだと言われたので、望夷宮で斎戒し、涇水を祀ろうとしていた。
  • 趙高は、娘婿の咸陽令閻楽と弟の趙成と謀り、二世を廃して子嬰を立てようとした。
  • 閻楽は郎中令を内応させ、賊が入ったと偽って兵千余を率いて望夷宮へ突入した。
  • 衛令僕射は周囲の警備は厳重だと答えたが、閻楽はこれを斬って侵入し、郎や宦官らを射殺しながら奥へ進んだ。
  • 二世は左右がみな狼狽して戦わぬ中、近侍の宦官一人に、なぜ早く知らせなかったのかと嘆いた。宦官は、早く言えば自分もすでに殺されていたから黙っていたのだと答えた。
  • 閻楽は二世の前に進み、驕恣で無道ゆえ天下がこぞって叛いたのだ、自ら始末をつけよと迫った。
  • 二世は、郡王、万戸侯、あるいは一般の黔首として生かしてほしいと求めたが、閻楽はすべて拒み、兵を進めた。
  • 二世はついに自殺した。
  • 趙高は諸大臣・公子を集め、秦はもとは王国であり、今は六国も復して秦地も狭いのだから帝号は空名にすぎぬとして、子嬰を秦王に立てた。
  • 二世は庶民の礼で杜南の宜春苑内に葬られた。

九月 子嬰、趙高を殺す

  • 趙高は子嬰に斎戒を命じ、宗廟で玉璽を受けさせようとした。
  • 子嬰は二人の子と相談し、趙高は群臣に誅されるのを恐れて義を装って自分を立てたのだが、実は楚と結んで秦宗室を滅ぼし関中を分けるつもりだ、廟中で自分を殺そうとしているに違いないと見抜いた。
  • そこで病と称して出向かず、趙高が自ら来るのを待った。
  • 趙高が何度も催促し、ついに自ら来ると、子嬰は斎宮でこれを刺殺し、その一族を三族とも滅ぼして、罪を公示した。
  • さらに将を遣わして嶢関を守らせた。

沛公、嶢関を突破し藍田へ

  • 沛公は嶢関を攻めようとしたが、張良は秦兵がなお強いから軽々しく戦うべきではないと言った。
  • そこで山上に旗幟を増して疑兵を見せ、郦食其・陸賈を使者として秦将に送り、利で誘って和を求めさせた。
  • 秦将はこれに応じて通じようとしたが、張良は、これは将だけの離反で兵卒が従わぬ恐れがあるから、油断したところを撃つべきだと進言した。
  • 沛公は軍を回して嶢関を迂回し、蕢山を越えて秦軍を急襲し、大破した。
  • そのまま藍田南に至り、さらに藍田北でも戦って、秦兵を再び大敗させた。