資治通鑑漢紀一 太祖高皇帝上之上 元年 前206年

冬十月 劉邦の入関と秦の降伏

  • 沛公劉邦が霸上に到着すると、秦の王子嬰は白馬の車に乗り、首に組紐をかけ、皇帝の璽・符・節を捧げて軹道のかたわらで降伏した。劉邦はこれを受け入れ、子嬰を役人に引き渡して監視下に置いた。
  • 諸将の中には子嬰を殺すべきだという意見もあったが、劉邦は「もともと寛大さを認められて先に関中へ入ったのであり、すでに降った者を殺すのは不吉だ」として退けた。

秦滅亡の教訓

  • 後世の賈誼は、秦が小国から天下を統一するまでに百余年を費やしながら、ひとたび民心を失うと一人の反乱で宗廟も国家も崩れたのは、仁義を施さず、攻める時と守る時の形勢の違いを理解しなかったからだと論じている。

咸陽入城と蕭何・樊噲・張良の諫言

  • 劉邦が咸陽に入ると、諸将は競って財宝の蔵へ走ったが、蕭何だけは秦の丞相府に入り、地図・戸籍・文書類を確保した。これにより劉邦は天下の険阻、戸口、兵力の強弱を詳しく知ることができた。
  • 劉邦は秦の宮室・帳幕・珍宝・婦女の多さを見て、そのまま滞在したくなった。これに対し樊噲は、こうした奢侈こそ秦を滅ぼした原因であり、天下を望むならすぐ霸上へ戻るべきだと諫めた。
  • さらに張良も、暴秦を除くために来たのだから、喪服の心で民を慰めるべきであって、ここで安楽にふければ桀を助けるのと同じだと説いた。劉邦はようやく従い、軍を霸上へ戻した。

十一月 約法三章と関中民心の掌握

  • 劉邦は諸県の父老や豪傑を集め、「先に関中に入った者を王とするという約に従えば、自分が関中の王となる」と述べたうえで、法を三条だけに簡略化した。すなわち、人を殺した者は死、傷害や盗みは相応の罪とし、それ以外の秦の苛法はすべて廃した。
  • また、役人も民も従来どおりの居所にとどまってよく、自分が来たのは害を除くためであって侵略のためではない、と各地に告げさせた。
  • 秦の民は大いに喜び、牛・羊・酒・食物を持って軍をねぎらおうとしたが、劉邦は倉の食糧は足りているとして受け取らなかった。そのため人々はいっそう喜び、劉邦が秦王になることを強く望んだ。

項羽軍の西進と新安の坑殺

  • 一方、項羽は河北を平定して西へ向かっていた。これ以前、諸侯軍の吏卒が秦中を通行した時に秦側から無礼な扱いを受け、また章邯が降伏した後には、今度は諸侯軍が秦兵を奴隷のように扱って辱めたため、秦兵の怨みは深かった。
  • 秦の降兵たちは、もし関中に入れなければ東へ連行されて家族ごと滅ぼされると恐れ、ひそかに反乱を語った。これを聞いた項羽は、黥布・蒲将軍と相談し、危険を避けるため夜襲して新安城南で秦の降卒二十余万人を坑殺し、章邯・司馬欣・董翳らだけを連れて入関した。

函谷関閉鎖と鴻門の危機

  • 劉邦の側近の進言で、函谷関を閉じて諸侯軍を入れず、関中の兵を徴して備える策が採られた。やがて項羽が到着して関門が閉ざされているのを知ると激怒し、黥布らに関を破らせた。
  • 十二月、項羽が戲の地に進むと、劉邦の左司馬曹無傷が密かに「劉邦は関中で王となり、子嬰を丞相にして珍宝を独占しようとしている」と告げたため、項羽は翌朝に劉邦を討つ気で酒宴を開いた。
  • このとき項羽軍は号して百万人、実数四十万で新豊の鴻門に、劉邦軍は号して二十万、実数十万で霸上にあった。

鴻門の会

  • 范増は、劉邦は関中に入っても財物や女色に目もくれず、その志は小さくない、天子の気があるから今すぐ撃つべきだと項羽に勧めた。
  • 項羽の叔父項伯は、かねて張良と親しかったため、夜中に劉邦陣営へ走って危機を知らせた。張良はこれを劉邦に伝え、劉邦は項伯を兄のように遇して酒を奉じ、婚姻の約を結び、自分には叛意がないと弁明した。
  • 項伯はその言葉を項羽に伝え、「先に関中を破った者がいたからこそあなたも入れたのであり、大功のある者を撃つのは不義だ」と説き、項羽もいったん承知した。
  • 翌日、劉邦は百余騎を従えて鴻門に赴き、秦攻略では項羽と協力しており、自分が先に入関できたのは思いがけないことで、小人の讒言が両者の間に隙を生んだのだと謝罪した。項羽はその場で曹無傷の密告によるものだと明かした。
  • 酒宴で范増はしきりに項羽へ合図し、項莊に剣舞のふりをして劉邦を刺させようとした。しかし項伯が同じく剣を抜いて舞い、身をもって劉邦をかばったため、項莊は手を出せなかった。
  • 張良は軍門で樊噲に危急を伝えた。樊噲は剣と盾を帯びて強行突破し、項羽の前に進み出て、秦の暴虐と劉邦の功績を挙げ、「功ある者を殺そうとするのは亡秦の後を継ぐものだ」と厳しく言った。項羽は反論できず、席を与えた。
  • やがて劉邦は厠に立つふりをして樊噲とともに脱出し、車騎は残したまま、数人だけで驪山の下道から芷陽を経て間道で霸上へ帰った。張良だけを残し、白璧を項羽に、玉斗を范増に贈って謝罪させた。
  • 張良が戻って劉邦の脱出を告げると、項羽は贈物を受け取ったが、范増は玉斗を叩き割り、「天下を奪うのは必ず劉邦であり、自分たちはやがてその虜になる」と嘆いた。劉邦は軍に戻るとただちに曹無傷を誅殺した。

項羽の咸陽蹂躙

  • 数日後、項羽は軍を率いて咸陽に入り、秦の降王子嬰を殺し、宮室を焼き払った。火は三か月消えず、財宝と婦女を奪って東へ帰った。秦の民は大いに失望した。
  • 韓生は、関中は山河に守られた富饒の地で、ここに都すれば覇業を成せると勧めたが、項羽は故郷へ帰ることばかり考えた。韓生が「楚人は猿に冠をかぶせたようなものだ」と漏らすと、項羽はこれを聞いて韓生を釜ゆでした。

春正月 二月 義帝の遷都と天下分封

  • 項羽は懐王に対し、「功もないのに天下の約を専断するとは何事か」と怒り、諸将の賛同を得て、懐王を尊んで義帝と号しつつ、上流に都すべきだとして江南の郴へ移した。
  • 二月、項羽は自ら西楚霸王となり、彭城を都として梁・楚の九郡を領した。
  • 劉邦については、范増らと疑念を抱きつつも表向きは約束違反を避けるため、巴・蜀・漢中を「これも関中の一部だ」と称して漢王に封じ、都を南鄭に置かせた。さらに章邯・司馬欣・董翳の三降将を雍王・塞王・翟王として関中に配置し、漢への帰路をふさがせた。
  • そのほか、魏王豹を西魏王、申陽を河南王、韓王成を韓王、司馬卬を殷王、趙王歇を代王、張耳を常山王、黥布を九江王、吴芮を衡山王、共敖を臨江王、韓広を遼東王、臧荼を燕王、田市を膠東王、田都を齊王、田安を濟北王とした。陳餘は三県を与えられただけで不満を残し、梅鋗は十万戸侯に封じられた。

漢王の怒りと蕭何の進言

  • 漢王劉邦はこの処置に激怒し、項羽を攻めようとした。周勃・灌嬰・樊噲もこれに賛成した。
  • しかし蕭何は、今は兵力が及ばず戦えば必敗であり、一時は一人の下に屈しても、万乗の上に伸びる道を取るべきだと説いた。巴蜀・漢中で民を養い、人材を集め、のちに三秦を定めれば天下は図れると勧めた。劉邦はこれを受け入れ、漢中へ赴き、蕭何を丞相とした。
  • 張良には金と真珠を与えたが、張良はすべて項伯に贈って、漢中の地を広く得られるよう取りなした。項羽はこれを許した。

夏四月 漢王の入漢中と棧道焼却

  • 諸侯は戲下で軍を解き、それぞれの封地に向かった。項羽は漢王に三万人をつけ、楚や諸侯から慕って従う者も数万人いた。漢王は杜の南から蝕中を通って漢中へ入った。
  • 張良は褒中まで送って帰国したが、その際、通ってきた桟道を焼き払うよう漢王に勧めた。諸侯の追撃を防ぐとともに、東へ戻る意思がないよう項羽に見せるためであった。

五月—秋 田榮の挙兵と趙地の不満

  • 田榮は、項羽が田市を膠東へ移し、田都を齊王にしたことに怒って五月に兵を起こし、田都を破って楚へ追いやった。田市を膠東に行かせまいとしたが、田市がひそかに即墨へ赴くと、六月に追ってこれを殺し、自ら齊王となった。
  • 彭越は鉅野で一万余人を率いていたが、田榮は将軍印を与えて濟北を攻めさせ、秋七月、彭越は濟北王田安を殺して三齊の地は田榮のものとなった。さらに彭越は楚軍を破った。
  • 張耳が常山王となったのに対し、自分はわずか三県侯にとどまった陳餘は憤り、張同・夏説を使って田榮に連携を求めた。田榮は兵を与え、趙王歇を再び趙に立てる動きが始まった。

韓王成の失脚と韓信の登場

  • 項羽は、張良が漢王に従ったこと、韓王成に功がないことを理由に、韓王成を本国に行かせず彭城まで連れて来て穰侯におとし、のちに殺した。
  • このころ韓信は、淮陰の貧しい出身で、かつて漂母に食を施され、町の若者に股くぐりの屈辱を受けた人物であった。項梁・項羽に従っても認められず、のちに漢へ移って連敖となったが、罪に問われて斬られかけたところを滕公夏侯嬰に救われた。
  • 夏侯嬰は韓信の言葉と風貌に才を感じて劉邦に推挙し、韓信は治粟都尉に任ぜられた。さらに蕭何は韓信とたびたび語り、その非凡さを見抜いた。

蕭何月下追韓信と大将拝命

  • 南鄭に至ると、将兵の多くは東帰りを望んで逃亡した。韓信も、自分は用いられないと見て去った。蕭何はこれを聞くと、報告する間もなく自ら追跡した。
  • 劉邦は丞相まで逃げたのかと怒ったが、蕭何が追っていたのは韓信一人だと知ると、なおも半信半疑であった。すると蕭何は、諸将は得やすいが、韓信のような国士は二人といない、漢中の王で終わるつもりなら不要だが、天下を争うなら韓信以外に計を任せられる者はいないと強く説いた。
  • 劉邦は韓信を将にしようとしたが、蕭何は軽々しい任命では留まらないとして、良日を選び、斎戒し、壇場を設けて大将軍として正式に拝するよう求めた。劉邦がこれに従うと、諸将は驚いた。

韓信の対楚戦略

  • 拝命後、韓信は劉邦に対し、項羽と自らを比較させたうえで、勇武では劣るとしても、天下を取る道は別にあると説いた。項羽は咆哮すれば千人を震え上がらせるが、賢将を任用できず、匹夫の勇にすぎないと評した。
  • また、項羽は人に対して情は見せるが、いざ封賞になると印綬を握りしめて与えられず、婦人の仁にすぎないとした。さらに、義帝との約に背き、故主を追い払い、自分の近親や功臣に不公平に封土を与えたので、名は覇者でも実は天下の心を失っていると論じた。
  • そのうえで、漢王が逆に功臣へ城邑を与え、義を掲げて東帰りを望む者を用いれば、諸侯は離反していくと述べた。とくに三秦の将たちは秦人の怨みを集めており、劉邦が関中で秋毫も犯さず約法三章を示したことは広く知られているから、東へ進めば三秦は檄を回すだけで定まると進言した。
  • 劉邦は大いに喜び、諸将の配置を韓信の策に従って定め、蕭何を巴蜀に残して租税と軍糧の確保を任せた。

八月 三秦攻略の開始

  • 八月、漢王は故道から出て雍を急襲した。章邯は陳倉で迎え撃ったが敗れ、好畤でも敗れて廢丘へ退いた。漢王は雍地を平定し、東は咸陽にまで至り、章邯を廢丘に包囲した。
  • 同時に諸将を各地に派遣すると、塞王司馬欣・翟王董翳はいずれも降伏した。両者の旧領はのちの渭南・河上・上郡の地となった。

太公・呂后の迎接失敗と王陵母の死

  • 漢王は薛歐・王吸を武関から出し、王陵の兵と合わせて太公と呂后を迎えさせたが、項羽が兵を出して陽夏で阻んだため前進できなかった。
  • 王陵は沛の人で、もとは南陽に拠っていたが、この時になって漢に属した。項羽は王陵の母を人質に取って王陵を招こうとしたが、母は使者に「漢王は長者であり、必ず天下を得る。私のために二心を抱くな」と言い残して自害した。項羽は怒ってその母を煮殺した。

張良の工作と項羽の北上

  • 項羽は旧呉令の鄭昌を韓王として立て、漢に対抗させた。
  • 張良は項羽に手紙を送り、漢王は約通り関中を得られれば東へ出ないつもりであり、しかも今は齊・梁が反して楚を滅ぼそうとしていると告げた。項羽はこれを信じて西への警戒を弱め、北の齊討伐へ向かった。
  • この年、周苛が御史大夫に任じられた。

年末 義帝暗殺の布石

  • 項羽は義帝に出発を急がせ、その臣下や側近も次第に離反していった。のちの惨事の前触れであった。