王賁による魏の滅亡
- 王賁は黄河から水路を引き、大梁を水攻めにした。大梁は後の浚儀県に当たり、引かれた水路は梁溝と呼ばれた。
- 三月、城壁が崩壊して魏王假は降伏したが、秦はこれを殺し、魏を滅ぼした。
安陵君の領地保全
- 秦王は安陵君に五百里の土地と安陵を交換しようと持ちかけた。安陵君は、魏の先王から受けた土地を最後まで守りたいと答えた。秦王はその道義を認め、存続を許した。
李信の楚侵攻と敗北
- 李信は平輿、蒙恬は寝を攻め、楚軍を大破した。寝は後の固始または潁州の寝丘に比定される。
- 李信はさらに鄢・郢を破った。ここでいう郢は旧都ではなく陳、鄢は鄢陵と考えられ、「鄢郢」は「鄢陵」の誤記とする説もある。
- 李信は西へ進んで蒙恬と城父で合流した。城父の比定には汝州郟城・許州葉県・亳州城父など複数説があるが、郡県によって同名の土地が存在した。
- 楚軍は三日三晩休まず追撃し、李信軍を大破して二つの陣営に入り、七人の都尉を殺した。この都尉は、従軍した郡都尉、または軍中に置かれた都尉である。
王翦の再起用
- 李信が敗走すると、秦王は自ら頻陽へ赴き、王翦の策を採用しなかったことを謝罪して出征を求めた。王翦は六十万でなければ受けないと譲らず、秦王は了承した。
- 秦王が霸上まで見送ると、王翦は良田や邸宅を繰り返し求めた。王翦は、功績を立てても封侯されないかもしれないので子孫の財産を確保したい、と説明した。霸上は長安東方の霸水沿岸にある。
- 王翦は武関へ向かう途中でも五度にわたり良田を求めた。欲深すぎると批判されると、秦王は猜疑心が強く、国内の兵力をほぼすべて自分に委ねた以上、財産への執着を示して反意がないと安心させねばならない、と答えた。