資治通鑑秦紀 始皇帝 二十五年 前222年

燕・代の滅亡

  • 秦は大軍を起こし、王賁が遼東を攻めて燕王喜を捕らえ、燕を滅ぼした。
  • 司馬光は、太子丹が一時の怒りから強大な秦に挑み、浅薄な暗殺計画によって燕を滅亡させたことを厳しく批判する。国家は人材・礼・仁・信によって固めるべきで、刺客に頼るべきではないと論じた。
  • また、荊軻も燕の厚遇への私情から一族を顧みず、短い匕首一本で秦を弱めようとした点で愚かだったとする。揚雄も要離・聶政・荊軻を、正義とは認められない刺客として論評した。
  • 王賁は代を攻め、代王嘉を捕らえた。これにより趙王室の抵抗も終わった。

江南と百越の平定

  • 王翦は楚の江南地方をすべて平定し、百越の君長を降伏させて会稽郡を置いた。秦の会稽郡は呉県を治所とし、後世の閩越・両浙を含む広大な区域だった。
  • 五月、全国で酒宴を許す大酺が行われた。

斉の孤立

  • 斉では君王后が秦に慎重に仕え、諸侯との信義も保った。斉は東を海に囲まれ、秦と直接国境を接しなかったため、秦が韓・趙・魏・燕・楚を攻める間も四十余年戦禍を受けなかった。
  • 君王后は死に際して有能な臣を斉王建に伝えようとしたが、筆記させる段になって忘れたと言った。
  • 君王后の死後、后勝が宰相となり、秦の間者から多額の金を受け取った。秦へ赴いた斉の賓客も買収され、王建に秦への入朝を勧め、軍備や五国への援助を怠らせた。

斉王への抗戦論

  • 王建が秦へ向かおうとすると、雍門の司馬は、王は社稷のために立てられたのだから秦へ行くべきでないと諫めた。王建はいったん即墨へ戻った。
  • 即墨大夫は、秦を嫌う三晋や楚の旧臣を集めれば各百万人の軍を作れ、臨晋関と武関から秦へ進攻できると説いた。しかし王建は採用しなかった。