直道と阿房宮
- 蒙恬に九原から雲陽まで直道を開かせた。山を切り、谷を埋めて千八百里に及んだが、数年かけても完成しなかった。
- 始皇帝は咸陽の人口が増え、旧王朝の宮殿が狭いとして、渭南の上林苑に朝宮を造り始めた。まず阿房宮の前殿を建設し、東西五百歩、南北五十丈、上には一万人が座れ、下には五丈の旗を立てられる規模とした。
- 前殿から南山へ楼閣の道を通し、山頂を宮門の標識とした。さらに阿房宮から渭水を越えて咸陽へ複道を延ばし、天の北極から天の川を横切って営室星へ至る形を象徴させた。
大規模な労役と移住
- 宮刑者や徒刑者七十万人を阿房宮と驪山陵の工事に振り分け、北山の石材、蜀・荊の木材を関中へ運ばせた。
- 関中には宮殿三百、関外には四百余が置かれた。
- 東海郡朐県の海岸に石を立てて秦の東門とし、三万戸を驪邑、五万戸を雲陽へ移した。移住者は十年間、租税・徭役を免除された。
微行と秘密主義
- 盧生は、人主は時折身分を隠して悪鬼を避け、居所を秘密にすれば不死の薬を得られると説いた。
- 始皇帝は自らを「真人」と呼び、「朕」と称することもやめた。咸陽周辺二百里の二百七十宮を複道・甬道で結び、各宮に帳幕・鐘鼓・美女を配置した。皇帝の居所を漏らした者は死罪とした。
- 梁山宮で丞相の車騎が多いのを見て不快に思ったところ、丞相はその後供回りを減らした。情報漏洩を疑った始皇帝は、その場にいた者を全員殺した。以後、所在を知る者はいなくなり、政務の裁決は咸陽宮で受け付けた。
方士逃亡と儒生坑殺
- 侯生と盧生は始皇帝を批判して逃亡した。始皇帝は、厚遇したのに誹謗したとして激怒し、咸陽の諸生を調査させた。
- 諸生が互いに告発し合った結果、禁令違反者四百六十余人を咸陽で穴埋めにして殺し、見せしめとした。さらに辺境へ送る罪人を増やした。
- 長子扶蘇は、諸生は孔子の教えを学ぶ者であり、厳罰にすれば天下が不安になると諫めた。始皇帝は怒り、扶蘇を上郡へ送り、蒙恬軍の監督に当たらせた。これは後に胡亥が嫡位を奪い、扶蘇を死なせる遠因となった。