秦、上党を攻略し長平で対峙
- 秦の左庶長王齕が上党を攻めて奪った。
- 上党の民は趙へ逃れ、趙は廉頗を長平に駐屯させ、地形を頼みつつ上党の民を抑え、また依拠して防衛させた。
- 王齕はさらに趙を攻め、趙軍はしばしば戦ったが勝てず、裨将一人と都尉四人を失った。
和議をめぐる議論
- 趙王は楼昌・虞卿に諮った。
- 楼昌は重い使者を出して秦と講和すべきだと主張した。
- これに対し虞卿は、「主導権は秦にある。今講和を求めても秦は受けない。むしろ楚・魏に厚く贈って結べば、秦は諸侯連合を疑い、そこで初めて講和が可能になる」と述べた。
- 王はこれを採らず、鄭朱を秦へ送って講和を求めた。
- 虞卿は「秦は鄭朱を厚遇して見せつけ、天下に『趙は秦に屈した』と思わせる。そうなれば誰も趙を救わず、講和も成り立たない」と予言した。
- 果たして秦は鄭朱を高く遇しつつ、趙とは講和しなかった。
廉頗更迭と趙括起用
- 秦軍はたびたび趙軍を破ったが、廉頗は塁を固めて出戦しなかった。
- 趙王は、損耗が大きいのに廉頗が臆して戦わないとしてたびたび責めた。
- 応侯范睢はさらに反間を用い、「秦が恐れるのは馬服君趙奢の子・趙括だけで、廉頗は相手にしやすく、やがて降るだろう」と趙に言いふらさせた。
- 趙王はついに廉頗を更迭し、趙括を将とした。
- 藺相如は「名声だけで趙括を用いるのは、柱を膠で固めた瑟を弾くようなものだ。父の兵書を読むだけで、変通を知らない」と反対したが、王は聞かなかった。
趙括の母の諫言
- かねて趙括は若い頃から兵法を学び、父趙奢と論じても屈しなかった。
- しかし趙奢は「戦争は死地なのに、趙括はあまりに軽く論じる。もし趙が彼を将にすれば、必ず軍を敗るのはこの子だ」と評価していた。
- 出陣にあたり母も上書し、父の頃は賜物を将兵に分け、自宅のことも顧みなかったのに、趙括は将になるや軍吏が恐れて見上げるだけで、賜物を家に蓄え、良田や屋敷の買得ばかり気にしていると述べた。
- 王は決意を変えず、ただし敗れても母に連座させないことだけは約した。
白起、総大将として秘かに指揮
- 秦王は趙括起用を聞くと、ひそかに武安君白起を上将軍とし、王齕を副将にした。
- 軍中には「武安君の指揮を漏らせば斬る」と厳命した。
- 趙括は着任すると軍令を一新し、出撃して秦軍を攻めた。
- 白起はわざと敗走し、伏兵二万五千で趙軍の後方を断ち、さらに五千騎で趙軍の本営との連絡も遮断した。
- 趙軍は二分され、補給路を絶たれた。秦軍は軽兵で圧迫し、趙軍は不利となって塁を築き、救援を待つしかなくなった。
秦、全国動員で包囲を完成
- 秦王は趙の食道が絶えたと聞くと、自ら河内へ赴き、十五歳以上の男子をことごとく長平へ送って、趙への救援や糧食の到着を断った。
齊・楚の傍観
- 斉と楚が趙救援を論じると、周子は「趙は斉楚にとって垣根であり、唇と歯の関係だ。趙が亡べば明日は自国が危うい。今こそ漏る甕をふさぎ、焦げる釜に水を注ぐように急いで救うべきだ」と説いた。
- しかも、趙救援は義であり、強秦を退ければ名も立つのに、斉王は穀物を惜しんで応じなかった。
九月、長平の惨敗
- 九月、趙軍は食糧が尽きて四十六日となり、兵はひそかに殺し合って食べるほど窮した。
- 趙括は塁を攻め破って脱出しようとし、何度も隊を分けて攻めたが果たせなかった。
- 最後に自ら精鋭を率いて突撃したが、秦軍の矢に当たって戦死した。
- 趙軍は総崩れとなり、四十万人余が降伏した。
白起、降兵を坑殺
- 白起は「上党の民は秦を嫌って趙に帰した。趙兵は反覆しやすく、生かしておけば乱を生む」と判断し、詐って降兵をことごとく穴埋めにして殺した。
- ただし年少者二百四十人だけを帰して、秦の威を趙に伝えさせた。
- 前後の戦いを通算すると、秦が斬首・捕虜とした数は四十五万に達し、趙の人心は大いに震えた。