資治通鑑周紀三 慎靚王 五年 前316年

巴・蜀の争いと秦の対応

  • 巴と蜀が互いに攻め合い、ともに秦へ救援を求めた。
  • 秦の惠王は蜀征討を考えたが、道が険しく狭いうえ、韓の侵攻もあって決断できずにいた。

張儀と司馬錯の対立

  • 張儀は、まず韓を攻めて三川・新城・宜陽を奪い、周の王都に迫って九鼎と天下の図籍を押さえ、天子を奉じて天下に号令すべきだと主張した。
  • 彼は、三川と周王室こそ天下の争奪の中心であり、遠方の戎狄である蜀よりも、ここを取るのが王業への近道だと論じた。
  • これに対し司馬錯は、国を富ませるには領土拡大、兵を強めるには民の富裕、王となるには徳の広がりが必要だと説いた。
  • 蜀は辺境で乱れた国だから、秦がこれを討てば暴虐を止める名分が立ち、兵を大きく損なわずに地と財を得られるうえ、天下から貪欲とも見なされないと主張した。
  • また、韓を攻め周室を圧迫すれば悪名を負い、韓・周が斉・趙・楚・魏と連携して秦を困らせる危険があると警告した。

秦、蜀を併合

  • 惠王は司馬錯の策を採用し、兵を起こして蜀を攻めた。
  • 十月、秦は蜀を平定し、蜀王を侯へ降格させ、陳荘を派遣して蜀の統治に当たらせた。
  • これによって秦はさらに強大・富裕となり、諸侯を軽んじるようになった。

燕で子之が実権掌握

  • 蘇秦の死後、その弟の蘇代も遊説で諸侯に名を上げた。
  • 燕では宰相の子之が蘇代と姻戚関係を結び、国政の主導権を握ろうとしていた。
  • 蘇代が斉から帰ると、燕王噲は斉王が覇者となれるかを尋ねた。蘇代は「臣下を信用しないから無理だ」と答えた。
  • これを受けて燕王は子之をいっそう重用した。

鹿毛寿の進言と燕王の譲国

  • 鹿毛寿は、堯が天下を譲ったことで賢者と称えられるのだから、王が国を子之に譲れば堯と同名になれると煽った。
  • 燕王はその言に乗り、国政を子之に委ねた。
  • さらに別の者は、禹が名目上は益に天下を譲るとしながら、実際には子の啓が継げるよう布石を置いたという故事を引き、名だけの譲与ではなく実権ごと渡すべきだと説いた。
  • そこで王は三百石以上の官吏の印綬を回収して子之に渡し、子之が王のように南面して政務を裁決するようになった。燕王噲はしだいに臣下のような立場に退いた。