宜陽陥落
- 甘茂は宜陽を五か月攻めても落とせなかった。
- 樗里子と公孫奭は予想どおり攻略中止を主張し、秦王は甘茂を呼び戻して兵を引こうとした。
- 甘茂が「息壌の盟約がある」と言うと、王はそれを認め、大軍を追加して援軍とした。
- 秦軍は首級六万を挙げ、ついに宜陽を陥とした。
韓、秦に謝罪して講和
秦武王の急死
- 秦武王は力比べを好み、任鄙・烏獲・孟説のような力士を大官に取り立てていた。
- 八月、武王は孟説とともに鼎を持ち上げようとして脈を絶ち、急死した。
- 孟説は一族ともども誅殺された。
昭襄王の即位
- 武王に子がなかったため、異母弟の稷が燕に人質としていたが、秦の人々は彼を迎えて立てた。これが昭襄王である。
- その母は楚系の女性、芈八子で、のちの宣太后であった。
趙武霊王、胡服騎射を決意
- 趙の武霊王は北方で中山の地を攻略し、房子から代北、さらに西の黄華山上にまで至った。
- そこで肥義と、胡服・騎射を採り入れて民に教える策を議した。
- 王は、愚者は笑うだろうが賢者は理解する、胡地と中山を必ず取るにはこれが必要だと断言した。
公子成の反対と説得
- しかし国人は皆これを嫌い、公子成も病と称して朝廷に出なかった。
- 王は使者を送り、家では親に、国では君に従うべきだとして、自分の新制度に公叔が従わないのは世の非難を招くと説いた。
- 公子成は、中国は聖賢の教えと礼楽の地であり、四方の夷狄もこれを手本としているのに、王が遠方の異俗を採るのは古道に背き人心に逆らうことだと反対した。
- そこで王はみずから赴き、趙の周囲には斉・中山・燕・東胡・楼煩・秦・韓がおり、騎射の備えがなければ守れないと力説した。
- また中山はかつて斉の強兵を頼みに趙の地を侵し、民を捕え、水攻めで鄗を危うくしたと回想し、それを雪ぐための改革だと説いた。
- 公子成はついに命に従い、胡服を賜って翌日それを着て朝見した。
- こうして趙では正式に胡服令が出され、騎射の訓練が始まった。