趙、主父体制へ
- 五月戊申、趙では東宮で大朝会が開かれ、国が何に伝えられた。
- 祖廟への即位礼が終わると、新王が臨朝し、群臣はみなその臣となった。
- 肥義は相国となり、旧王を補佐しつつ新王も支えた。
- 武霊王はみずから「主父」と号した。
主父、胡服のまま秦へ潜入
- 主父は子に国を治めさせ、自らは胡服を着て将士・大夫を率い、西北の胡地を経略した。
- さらに雲中・九原から南下して咸陽を襲う構想を抱き、まず自ら使者を装って秦に入り、地形と秦王の人物を探った。
- 秦王は当初その正体に気づかなかったが、やがてその姿が非常に雄偉で、臣下の風格ではないと怪しんだ。
- 人を出して追わせたが、主父はすでに関所を脱しており、後で本人だったと判明して秦は大いに驚いた。
諸国の動き
- 斉王と魏王は韓で会見した。
- 秦は楚を攻めて八城を奪った。
秦、楚懷王を武関へ誘う
- 秦王は楚王に書を送り、黄棘の盟、太子入質の歓び、太子による秦重臣殺害と逃亡、その後の辺境侵攻などを持ち出した。
- いま楚王が太子を斉に人質として平和を求めたので、秦楚が不和のままでは諸侯を統御できない、武関で会って直接盟約しようと誘った。
楚朝廷の対立
- 楚王はこれを憂え、行けば欺かれるおそれがあり、行かなければ秦の怒りが増すと迷った。
- 昭睢は、秦は虎狼の国で、諸侯を併呑する心を持つから信じられず、出向かずに兵を整えて守るべきだと主張した。
- しかし懷王の子の蘭は出向くよう勧め、王はついに秦へ入った。
懷王、秦に拘束される
- 秦王は、一将軍に楚王のふりをさせて武関に伏兵を置いていた。
- 楚王が到着すると関を閉ざしてこれを脅迫し、そのまま西の咸陽へ連行した。
- 章台での朝見では、楚王を属藩の臣下の礼で扱った。
- 秦は巫郡と黔中郡の割譲を求め、先に土地を渡せば盟を結ぶと言った。
- 楚王は、秦は自分を欺き、さらに強圧で地を奪おうとしていると怒り、同意しなかった。
- 秦はそのまま楚王を抑留した。
楚、太子を帰国させて即位させる
- 楚の大臣たちは、王は秦に囚われ、太子は斉に人質となっているので、このままでは斉と秦に楚を分け取られると恐れた。
- 国内にいる王子を立てようという意見もあったが、昭睢は、王も太子も苦境にある時に王命に背いて庶子を立てるのはよくないと反対した。
- そこで楚王の死を偽って斉へ報じ、太子を帰国させようとした。
- 斉の湣王は群臣に諮った。ある者は、太子を留めて楚の淮北を要求すべきだと進言した。
- しかし斉相は、郢で新王が立てば、人質を抱えたまま天下に不義をさらすだけだとして反対した。
- 別の者は、新王と交渉して下東国を差し出させ、その代わりに斉が太子を殺すという取引をすればよい、と過激な策を示した。
- だが斉王は最終的に相の意見を採り、楚太子を帰国させた。
- 楚人は太子を立てて王とした。これが頃襄王である。
孟嘗君、秦に入る
- 秦王は孟嘗君の賢名を聞き、涇陽君を斉に人質として送り、その代わりに孟嘗君を秦へ招いた。
- 孟嘗君は秦に入り、丞相とされた。