戰國策魏策(四)(魏四)

蛇の喩えで秦王を諫める

  • ある論者は秦王に、魏(梁)は山東諸国の要であり、蛇の急所(首尾)のように、魏を攻めれば山東諸国が総出で救援に来ると説き、まず弱い南方(楚)を攻めて力を蓄えるべきだと進言した。秦は実際にまず藍田・鄢郢を攻めた。

恃みにする危うさ

  • ある論者は魏王に、曹・繒・鄭・原・中山がそれぞれ大国を頼みにしたまま滅んだ例を挙げ、楚の春申君の一存に頼る外交の危うさを説いた。

張旄の問答

  • 魏王が韓とともに秦を攻めるべきか尋ねた際、張旄は「韓は魏を恨み秦を恐れている、韓は結局その恐れる相手(秦)に降る」と巧みな問答で示し、韓攻めの得失を悟らせた。

司馬食其への忠告

  • ある客は司馬食其に、天下を一つにまとめようとする発想も、魏一国で秦に抗おうとする発想も共に浅慮だと述べ、いち早く秦に接近して自らの立場を固めるべきだと勧めた。

秦楚を戦わせる策

  • 秦魏が楚を攻めようとした際、樓緩は魏王に「秦楚を戦わせて漁夫の利を得るべき」と進言した。

新城君への皮肉

  • ある者は新城君に、「夜道を行く者は犬に吠えられぬようにはできないが、自分は非難されぬようにできる」と述べ、暗に自らの立場の正しさを主張した。

昭忌の唇歯論

  • 秦が韓の管を攻めた際、昭忌は魏王に「韓魏は唇歯の関係、韓を救わねば次は魏が狙われる」と説き救援を進言、その通り秦は矛先を魏に転じた。昭忌はさらに秦王に「趙を制すれば燕荊斉は自ずと弱まる」と説き、事態を収拾した。

秦趙の抗争を利用する策

  • 秦趙が争った際、ある論者は魏王に「趙と結んで秦と対峙させれば、秦趙双方を制する立場に立てる」と進言した。

垣雍の空手形

  • 長平の戦いの最中、平都君は魏王に「秦が約束する垣雍の地は、戦況次第で反故にされる空手形に過ぎない」と説き、合従を勧めた。

秦魏会見の駆け引き

  • 秦魏が会見する際、ある論者は「斉との関係を保ったまま秦と会見すれば、秦は魏を重んじる」と説いた。

秦趙離間の策

  • 芮宋は秦趙を離間させるため、魏に秦太后の養地を接収させ、秦の怒りを誘って趙との関係を断たせた。

対斉策と管鼻・翟強の対比

  • ある論者は楚王に「秦に魏攻めを求めても無駄、斉を攻める方が得策」と説き、また管鼻と翟強の秦との関係を晋楚の故事に喩え、外交上の駆け引きの機微を論じた。

成陽君の秦入りを阻む

  • 韓魏が秦に服属しようとした際、白圭は魏王に「成陽君を秦に行かせれば抑留され韓への割譲圧力の口実にされる」と説き、これを阻止させた。秦が寧邑を得た後も、呉慶は「弱さを見せれば攻撃を招く」と魏王を戒めた。

季梁、北へ向かう馬車の喩え

  • 魏王が邯鄲を攻めようとした際、季梁は「馬が良くても御者が上手でも、南の楚へ行くのに北へ向かえば着けない」譬えを引き、覇業を急ぐあまり手段を誤ることを戒めた。

周肖と宮他の外交術

  • 周肖は宮他の助言により、斉に対し「魏との関係を持つこと」を示すことで、かえって斉からの信頼と支援を得る策を採った。

張儀を守った工夫

  • 周㝡と翟強が張儀を陥れようとした際、張儀はあらかじめ手を打って難を逃れた。

周㝡の斉入りをめぐる弁明

  • 秦が周㝡の斉入りに怒った際、魏王は「周㝡があってこそ天下との通路が保てる、彼を失えば斉との連携も断たれる」と弁明した。

唐且、秦の援軍を引き出す

  • 斉楚が魏を攻め秦の援軍が来ない中、九十余歳の唐且が自ら秦へ赴き、秦王に「魏が滅べば斉楚が強大化する、援軍が遅れれば秦の謀臣は無能だ」と説き、秦は急ぎ援軍を送って魏を救った。
  • 後に信陵君が趙を救った際、唐且は「人の恨みは忘れず、人への恩は忘れよ」と諫め、信陵君は自らの功を誇らぬよう戒められた。

縮高の義死

  • 信陵君が魏の管を攻めた際、その守将の父・縮高に投降を勧めたが、縮高は「父が子を攻めさせるのは義に反する」と拒み、自ら命を絶って忠義を貫いた。信陵君はこれを聞いて喪服をまとい安陵君に謝罪した。

龍陽君の涙

  • 魏王と釣りをしていた龍陽君は、大魚を得るたびに小魚を捨てる自分を、いずれ寵愛を失う自分に重ねて涙した。魏王は感じ入り、以後美人を推挙する者を族滅すると布告した。

秦攻魏急の際の離間策

  • 秦の攻勢が激しい中、ある者は魏王に、秦国内の呂不韋派と嫪毐派の対立を利用し、魏の一部を嫪毐の功として与えることで太后の恩を得て、秦国内の分裂を誘発する策を献じた。

唐雎、秦王に屈せず

  • 秦王が安陵君に領地交換を強要した際、安陵君は先王より受け継いだ地として拒否した。秦王は唐雎を呼び「天子の怒りは屍百万・流血千里に及ぶ」と脅したが、唐雎は「専諸・聶政・要離ら布人の怒りは天変地異を呼んだ」と述べ、剣を抜いて立ち上がった。秦王はこれに恐れをなし謝罪し、以後安陵は無事であった。