閔王の暴政と滅亡
- 斉閔王は諫言する狐咺・陳挙を殺し、人心が離れた。燕の楽毅(昌国君)が攻め込むと斉軍は破れ、王は莒へ逃れた。楚将・淖齒は「血の雨・地の裂け・闕での哭き声」など天変地異を挙げて王の失政を数え上げ、閔王を殺した。
- 太子(後の襄王)は身を隠して庄園で働き、太史氏の娘(後の君王后)に見出されて匿われた。田単は即墨の守りから燕軍を破って斉を回復し、莒から太子を迎えて即位させた。
王孫賈、淖齒を討つ
- 十五歳の王孫賈は、母の戒めに応じて市中に「淖齒を討つ者と共にせよ」と呼びかけ、四百人を集めて淖齒を刺し殺した。
魯仲連、聊城を説き落とす
- 燕の将が讒言を恐れて聊城に籠り、田単が一年以上攻めても落とせなかった。魯仲連は矢文で燕将に「今の忠義の判断を誤れば功名を失う」と説き、撤兵して燕へ帰るか、あるいは斉に仕えて厚遇を得るか、いずれかを選ぶよう勧めた。管仲や曹沫が小節にこだわらず大功を成した故事を引き、燕将は説得に応じて兵を退いた。
田単への疑いと貫珠者の弁
- 田単が凍える老人に自らの裘を与えたことを、襄王は「民心を得て国を奪うつもりでは」と疑った。貫珠者という人物が「王がその善行を称賛し、自らの徳として取り込めばよい」と助言し、襄王はこれに従って田単を称え、自らも善政に努めるようになった。
貂勃と田単
- 田単を常に非難していた貂勃は、召し出された際「跖の犬が堯に吠えるのは、堯を賤しんでいるのではなく主に忠実なだけ」と弁明し、田単はこれに納得して彼を用いた。
- 後に王の寵臣九人が田単を讒言した際、楚から戻った貂勃は王に「文王の呂尚、桓公の管仲に並ぶ功臣を疑うのか」と諫め、田単のかつての戦功(三里四方の即墨から千里の斉を回復した功)を説いて王を翻意させ、王は讒言した九人を誅殺し田単を厚く封じた。
田単、狄を攻め落とす
- 田単が狄を攻めて三ヶ月落とせずにいると、魯仲子は「即墨籠城時は死を覚悟し士卒も奮い立ったが、今は富貴に安んじ死を恐れる心があるからだ」と指摘した。田単はこれを聞いて奮起し、自ら矢石の下に立って指揮し、ついに狄を陥落させた。
濮上の一件と対宋策
- 濮上での戦いで斉が不利になった際、盼子は斉王に「余った糧食を宋に売れば宋は喜び楚に協力しなくなる。国力が回復すれば代金未払いを口実に宋を攻めることもできる」と献策した。
法章(襄王)と君王后
- 閔王の子・法章は乱の後、姓名を変えて莒の太史家に身を隠し、その娘(後の君王后)に見出され匿われた。乱が収まると法章は名乗り出て襄王として立てられ、太史氏の娘は王后となった。
- 君王后は秦に対し慎重に事え、斉王建の代まで四十年余り兵禍を免れた。秦の使者が贈った解けない玉の連環を、君王后は槌で打ち割って「解けました」と答えた逸話が伝わる。
- 君王后は臨終の際、王建に有用な臣下の名を書き留めさせたが、最後に「老婦はもう覚えていない」と告げて世を去った。
斉の滅亡
- 王建の代、相・后勝は秦の賄賂を受け、秦への朝貢や無防備を進言し続けた。雍門司馬や即墨大夫は王建に秦への入朝を諫め、三晋・楚の遺臣を糾合して秦に当たれば斉の勢威を取り戻せると説いたが、王建は聞かず秦の使者・陳馳の口車に乗って秦へ入朝し、共の地に幽閉されて餓死した。
楚への合従工作を巡る齊明の弁
- 斉が淖齒の乱を経た後、秦は斉を取り込もうとし蘇涓を楚へ遣わした。斉明は楚王に、秦が楚より斉を重んじているように見せかけて楚を出し抜こうとしているに過ぎないと見抜き、齊秦を結ばせないよう説いた。