西太后演義儲君廃され鑾駕帰京し、新政を再び布く(第三十二回 儲君被廢安輦入京 新政重行臨朝布敕回)

西安からの東行

  • 光緒二十七年八月二十四日、両宮は西安を発ち東京(北京)へ向かった。行列の設営は昨年の西狩時とは打って変わって豪華になった。
  • 西太后は華麗な装いで機嫌よく振る舞う一方、光緒帝だけは終始うつむき加減で愁いを帯びていた。
  • 随行の宦官らは沿道で地方官から金品を巻き上げ、地方官はやむなく百姓から取り立てて補うという弊害があった。

李鴻章の死と論功

  • 開封で豫撫松壽の出迎えを受けた際、李鴻章の訃報が届いた。西太后は涙を流して惜しみ、太傅・一等侯爵を追贈し賢良祠に祀るよう命じた。
  • 王文韶が全権大臣代理となり、李鴻章の遺言により袁世凱が直隷総督代理に任じられた。

李蓮英の進言と大阿哥廃立

  • 李蓮英は義和団に肩入れした自身への追及を恐れ、開封での滞在を引き延ばして京中の様子を探らせた。慶親王の内密の書状で安全が保証されると、ようやく帰京を進めた。
  • 李蓮英は西太后に、大阿哥溥儁の父・載漪が首魁として処罰された以上、大阿哥の地位も外国の疑いを招くと説き、廃立を勧めた。
  • 西太后はこれを容れ、光緒帝の名で溥儁の大阿哥号を剥奪し宮外へ退去させる上諭を出した。溥儁自身は特に気にする様子もなく、以前と変わらぬ様子だったが、宮中の扱いは一変した。

黄河を渡って北京へ

  • 十一月四日、開封を出発。黄河では河神を祀る儀式を行い舟で渡河した。順徳府で袁世凱の出迎えを受け、正定府では恭親王溥偉らが特別列車を用意して待った。
  • 二十四日、専用列車で北京へ向かった。西太后は行李の積み込みを終えるまで発車を待たせるなど、細部にこだわりを見せた。列車は二十一両編成で豪華な設備が施された。
  • 保定で一泊し、翌朝豊台で外国人の車務総管が交代した。西太后は餞別として双龍宝星を贈った。

前門への到着と入城

  • 北京前門駅では慶親王以下の大官が出迎え、外国人来賓のための特設席も用意された。西人は当初脱帽しなかったが、西太后が微笑みかけると脱帽して敬礼した。
  • 光緒帝が先に降車し、西太后が続いた。慶親王・王文韶らの拝謁を受け、荷物の点検を済ませてから輿に乗った。廟に立ち寄って参拝した後、紫禁城に入った。

宮中の再会と論功行賞

  • 瑜皇貴妃ら先朝の妃嬪と再会し、宮中の無事を確認した西太后は寧壽宮の宝物が失われていないことに安堵した。儀鑾殿の焼け跡を見て嘆息した。
  • 帰京後、奕劻・栄祿・王文韶・劉坤一・張之洞・袁世凱らに恩賞を与え、珍妃を貴妃に追贈した。珍妃を井戸に落として殺した崔総管には出宮を命じた。

公使謁見と新政の詔

  • 光緒帝と西太后は各国公使、続いて公使夫人らと謁見し、友好を確認し合った。西太后は愛想よく振る舞い、公使夫人らの好印象を得た。
  • 西太后は政務処大臣と協議し、旧習の弊害を戒め中西の政治を参酌して改革案を諮問する新政の上諭を発した。康有為らの変法とは異なる趣旨であると強調しつつ、法制・吏治・学制・軍制・財政などの改革を諸大臣に諮問させた。

新政の諸施策と東三省交渉の予兆

  • 満漢通婚の許可、中西律例の編纂、学堂・選挙制度の整備を命じ、張百熙・呉汝綸・王文韶・瞿鴻璣・袁世凱・張之洞・伍廷芳らを新政の担当に任じた。
  • 奕劻・王文韶に、駐京ロシア公使との東三省返還交渉を命じたが、これが後の紛糾の火種となる。

評語

安穏になった途端に危機を忘れ、災いを懲りずに旧弊を改めないさまは、識者ならずとも見通せることである。西太后は外国人を利益や色仕掛けで懐柔できると考え、漢代の五餌三表の故智を用いようとしたが、当時とは国際情勢が全く異なり、そのような小手先で列強を籠絡できるはずがない。維新の詔を重ねて出しながら実際の内容は康有為・梁啓超の旧案の焼き直しに過ぎず、体面を取り繕おうとするのみで、結局は自らの過ちを認めようとしない姿勢こそが最大の誤りである。