西太后演義義和団を庇い邪術を誤信し、宣戦して友邦に開罪す(第二十七回 袒拳匪誤信邪術 頒戰諭開罪友邦)
毓賢と載漪の共謀
山東巡撫から召された毓賢は、上京してすぐ端王邸を訪れ、義和団の「神技」を誇張して説き聞かせた。載漪はなお太后の懐疑を気にかけたが、毓賢は「まず軍機大臣らで上奏し、実際に太后にお目通りさせて実証すればよい」と入れ知恵する。載漪は徐桐・剛毅・啓秀ら懿戚を集めて根回しし、裕祿にも団民の訓練を密かに督励させた。
李鴻章の遠のく京師
李鴻章は情勢の不穏を察知し、外任を望んで両広総督への転出を願い出て、太后の許可を得て南へ去った。
拳匪の拡大と楊福同の死
夏になると拳匪は天津の鉄道を破壊し、紅燈照の女たちが駅を破壊するなど猖獗を極めた。直隷副将楊福同が鎮圧に出て殺害される事件も起きる。太后は剛毅・趙舒翹を現地調査に派遣したが、二人は楊福同の死を伏せ、拳民の実力を過大に報告した。太后はこれを信じ、載漪に総理衙門を掌握させ、啓秀・那桐らも同衙門に加わらせた。
榮祿への不信と董福祥の招集
慶王奕劻が外国兵の入城を黙認したことに載漪は不満を募らせる。剛毅も加わり、榮祿が拳民の利用に消極的なことを非難し、董福祥の軍を使って使館を包囲することを画策、載漪の要請で董軍が急ぎ京入りする。
杉山彬殺害と宣戦への傾斜
董軍の甘勇と拳匪が城内を横行するなか、日本公使館書記官杉山彬が甘勇に斬殺される事件が起こる。載漪はこれを聞いても悔いる様子もなく、むしろ外国人を皆殺しにすべきだと息巻いた。折しも列強が大沽砲台の引き渡しを要求してくる報が届き、剛毅・啓秀・那桐らは開戦を後押しする策を練る。
偽の最後通牒と宣戦の決定
夜、太后は軍機大臣を召集し、大沽砲台占領への激怒を示す。載漪は総理衙門に届いたという最後通牒(太后の政権返上、大阿哥廃止、外国兵一万の入京要求を含む偽の照会)を提示し、太后の怒りに火をつけた。榮祿は圍攻使館の不可を諫めたが容れられず、翌日には正式な宣戦の詔書が発せられる。詔書は列強の非礼と侵略を糾弾し、義民数十万の蜂起をもって夷狄を退けると宣言する内容だった。光緒帝は榮祿の和平案を口にしかけたが、李蓮英の眼光に怯んで前言を翻す。滿漢の大臣らが慎重論を唱えるも、載漪に「漢奸」と一喝され沈黙させられた。
クリンデ公使殺害
宣戦の夜、ドイツ公使クリンデが総理衙門に向かう途上、護衛の誤射から虎神営の兵に撃たれて死亡する。載漪らはこれを快挙と喜んだが、慶王奕劻は重大事だと危惧し、榮祿は自ら処罰を願い出て動揺を見せた。
大阿哥への折檻と偽の勝報
その頃、大阿哥溥儁が刀を振り回し「洋鬼子の弟子」すなわち光緒帝を殺すと騒いでいるのを西太后が見咎め、自ら鞭で打って弘徳殿に戻させた。憤りの収まらぬところへ載漪が「天津で大勝、洋鬼子を撃退した」と報告し、西太后は喜色を浮かべる。
評語
拳匪を庇った罪は、まず毓賢、次いで剛毅、さらに載漪兄弟や崇綺・徐桐・啓秀・趙舒翹ら、そして最後に西太后に帰する。西太后自身の罪は軽く見られがちだが、実権を握るのは太后であり、佞臣を信任して友邦に開戦を仕掛けたのは太后自身の責である。毓賢・剛毅は迎合のため、載漪は野心のため、西太后は光緒帝への嫉視のために、それぞれ拳匪を庇った。偽りの最後通牒一つで宣戦の詔書が下されるとは、身の程を弁えぬ振る舞いであり、憐れむべくも滑稽である。