西太后演義前朝を序で語り、后族の幼少期を遡り記す(第一回 述勝朝暢談楔子 溯後族順敘髫年)

母后臨朝という制度への序言

  • 古来、母后が朝政に臨むことは戒められてきた。歴代でただ一人、宋の宣仁太后だけが「女中の堯舜」と称えられたが、漢・唐では外戚や宦官がはびこり国を乱した例が多い。
  • 語り手は、清朝末の母后垂簾は同治初年の那拉氏(後の西太后)に始まると説く。咸豐帝が熱河で崩じ、幼い同治帝が即位すると、生母の那拉氏は反対する王大臣を退けて実権を握った。
  • 同治帝の嫡母鈕祜祿氏(慈安)も名目上は共に垂簾したが、実際の政務は那拉氏(慈禧)が主導した。
  • 太平天国・捻軍の乱や英仏連合軍の侵攻などの内憂外患を乗り切り、一時は中興の気象を見せたため、内外から称賛を受けた。
  • 同治帝の死後、光緒帝の代でも両太后が訓政を続け、慈安の死後は慈禧が単独で権力を握った。光緒帝の親政後も慈禧は頤和園に退きつつ実権に関与し続けた。
  • 日清戦争の敗北や戊戌変法の混乱を経て、慈禧は三度目の垂簾を行い、義和団事件という大禍を招いた末に列強の分割こそ免れたが、莫大な賠償金で国力を消耗させた。
  • 語り手は、慈禧への毀誉褒貶はいずれも行き過ぎであり、彼女が存命であれば革命はもっと難航しただろうと評し、これから彼女の生涯を演義体で綴ると述べる。

葉赫那拉氏の由来と祖先の因縁

  • 西太后(那拉氏)は満洲の古い部族・葉赫国の後裔。清の太祖ヌルハチが建州の地に社殿を建てようとした際、「滅建州者葉赫」と刻まれた古碑が掘り出され、ヌルハチを驚かせた。
  • 葉赫の主・納林布祿との対立から戦となり、ヌルハチが勝利。葉赫は和議のため宗女を妃として差し出したが、その後もヌルハチは葉赫討滅の念を抱き続けた。
  • 明とも結んだ葉赫だったが、ヌルハチに攻め落とされ、貝勒・金台石は処刑される際、「葉赫の子孫が絶えぬ限り必ず恨みを晴らす」と誓った。
  • しかしヌルハチは葉赫那拉氏の女を妃に迎えており、その血筋(代善・皇太極を生んだ)は清室内に残った。
  • 道光帝の代、四子(後の咸豐帝)の妃選びで那拉姓の女性が候補に挙がったが、金台石の呪いを恐れた道光帝は縁組を止めさせた。しかし後の選妃では才貌のみで姓氏を問わなかったため、蘭兒(後の西太后)が宮中に入る道が開かれることになった。

蘭兒の生い立ちと惠徵の困窮

  • 西太后の幼名は蘭兒。父の惠徵は安徽の候補道員だったが不遇で困窮していた。
  • 同僚の吳棠(盱眙県出身)が惠徵に同情し、たびたび援助していた。惠徵は家族に、出世した暁には吳棠の恩を忘れるなと言い聞かせ、蘭兒はこれを深く胸に刻んだ。
  • 蘭兒は幼い頃から容姿に恵まれ、裁縫よりも読書・習字・史書・詩を好み、西施や楊貴妃らの故事に通じていた。
  • 父娘の対話で、蘭兒は「女は学問をしても仕方ない」と諭す父に対し、西施や楊貴妃の詩句を引いて「自分もいつか人に勝つかもしれない」と自負を語り、惠徵を驚かせる。

吳棠との縁

  • ある日吳棠が惠徵を訪ね、貧しさを嘆く惠徵と語り合う中、茶を運んできた蘭兒の立ち居振る舞いに感心する。惠徵が娘を紹介すると、蘭兒は礼儀正しく挨拶し、吳棠から銀二両を賜る。
  • 吳棠は蘭兒の器量と志を見込み、将来「貴人」になるかもしれないと惠徵に語る。以後、蘭兒は吳家に出入りし、吳棠夫妻から目をかけられ、教養と身なりを整えていった。
  • 吳棠が清江県令に転任する際、蘭兒は名残を惜しんで見送る。

惠徵の死と蘭兒の苦難

  • 吳棠が去った後、惠徵は出世の見込みが立たないまま窮乏し、心労から病に倒れる。蘭兒は看病に努めるが、薬代もままならず、惠徵はついに息を引き取る。臨終の際、惠徵は蘭兒に「困窮したら吳老伯を頼れ」と言い残す。
  • 蘭兒は母や幼い弟妹とともに悲嘆に暮れるが、葬儀の費用もなく、各旗員に嘆願して援助を募り、ようやく父を葬る算段をつける。

評語

前半は母后臨朝の是非を総論し、全書の楔子として西太后の功罪を先取りして示す。後半は葉赫那拉氏の由縁と蘭兒の幼少期を語り、清朝の因果と西太后の性情の両方をこの一回に凝縮している。