西漢演義第一百回 呂太后は功臣の誅殺を謀る (呂太后謀誅功臣)

功臣粛清の企てと酈商の諫言

呂后は帝の崩御を隠したまま、群臣を宮中に呼び寄せ武士で誅殺する計画を審食其と相談した。酈商は「地方に散る功臣たちが精兵を握っている状況で粛清を試みれば、逆に反乱を招き天下が危うくなる」と諫め、代わりに崩御を公表し大赦を行い、樊噲・周勃・王陵らに関中防護を任せる穏当な策を提案、呂后はこれを採用した。

発喪と恵帝の即位

叔孫通に起草させた遺詔が発せられ、帝の崩御が公表された。太子盈が即位し(恵帝)、群臣は先帝を「高皇帝」と尊号することを議決、沛県には高帝廟が建てられ、かつて教習した二百人の歌児による祭祀の礼が定められた。

燕王盧綰の反乱

高帝崩御を聞いた燕王盧綰は匈奴と結んで反乱を起こした。恵帝は高帝の遺詔に従い樊噲・周勃に二十万の兵を与えて討伐させた。樊噲は「正面から盧綰と対峙しつつ、周勃に別動隊で背後を突かせる」策を立て、盧綰・匈奴連合軍を挟撃、盧綰は敗走の末に自刃し、匈奴は投降、燕代は平定された。

凱旋

樊噲・周勃は捕虜の匈奴を伴って長安に凱旋、恵帝は重賞を与えた。叔孫通は外国使者を迎える威儀を整えるよう進言し、恵帝はこれを受け入れ、翌日の朝儀に備えることとなった。詳細は次回に語られる。