西漢演義漢の恵帝は坐して太平を享受する(第一百零一回   漢惠帝坐享太平)

匈奴の朝見

叔孫通の進言により盛大な朝儀が整えられ、樊噲に率いられた匈奴の酋長たちは漢の威儀に感服して拝伏した。恵帝は宴を設けてもてなし、天下は平穏となった。呂后は皇太后となり、呂澤ら呂氏一族は権勢を振るい、諸呂は皆列侯に封じられたが、大臣たちは誰も諫めなかった。

蕭何の死と後継指名

老病の蕭何を恵帝が見舞うと、蕭何は死期を悟りつつ「後継には曹参が最適、先帝もその名を挙げていた」と推挙し、「先帝の定めた法をよく守り、王陵・周勃ら旧臣を用いれば天下は安泰」と遺言して間もなく世を去った。

曹参の「無為の治」

曹参は蕭何との確執を超えた推挙を知り、恩に報いる決意で丞相に就任、蕭何の定めた法制度を一切変えず、実直な人材を用いて浮薄な者を退け、静穏な統治を旨とした。恵帝がその無為ぶりを問うと、曹参は「陛下は高帝に及ばず、私も蕭何に及ばない、ならば先人の定めた良法をそのまま守り、君臣が同心すれば天下は治まる」と答え、恵帝も納得した。曹参の治世三年で民風は淳朴になり、「蕭何法を為り、斠として一を画くが若し、曹参これに代わり、守りて失わず」と歌われた。

曹参の引退

曹参は「秦楚の乱世以来、位人臣を極めた今、久しく貪るべきではない」として引退を願い出、恵帝は再三の懇願に折れてこれを許し、宣平侯に加封して十万戸の食邑と子孫世襲の恩典を与えた。

その後の体制

恵帝は高帝の遺詔に従い、王陵を右丞相、陳平を左丞相、周勃を太尉に任じ、朱虚侯劉章に諸呂の抑制を託した。宰相が内政を、大将が外事を治め、蛮夷も帰順し、天下は安定して太平を謳歌するに至った。