西漢演義第六回 呂政が立ち、ひそかに秦の世継ぎを絶やす (呂政立暗絕秦嗣)
王位の継承
- 秦の昭王が薨去し、安国君が即位して華陽夫人を皇后、子楚を太子とするが、まもなく安国君も薨じ、子楚が王となる。
- 子楚の代に秦は趙・韓・魏を攻め勢力を拡大するが、在位三年で薨去し、幼い太子・政が王位に就く。呂不韋は相国となり「仲父」と称され、幼王のもとで国政を専断した。
呂不韋の栄華と『呂氏春秋』
- 呂不韋は家僮・食客を多数抱え、栄華を極めた。学者を集めて編ませた大著を『呂氏春秋』と名づけ、咸陽の門前に掲げて「一字でも直せる者には千金を与える」と誇示したが、誰も手を出せなかった。
太后と嫪毐の醜聞
- 呂不韋は太后との密通が露見することを恐れ、繆毐(嫪毐)を宦官と偽って太后に近づけた。繆毐は太后の寵愛を得て長信侯に封じられ、宮中の実権を握るまでになる。
- 酒席での諍いから繆毐の正体(宦官でなく太后との間に子をなしていたこと)が露見し、秦王は激怒して繆毐一族を誅し、太后の産んだ二子を殺し、太后を雍に遷し、呂不韋も幽閉した。連座して処罰された臣下は多数に上った。
茅焦の諫言
- 斉人の茅焦が死を恐れず秦王を諫め、母を遠ざけた非を説いたところ、王は反省して太后を咸陽に迎え戻し、呂不韋も一旦は釈放して河南へ封国させた。
呂不韋の死と始皇帝の即位
- 諸侯の使者が呂不韋のもとに絶えず出入りするのを警戒した秦王は、不韋に蜀への移住を命じる書を送る。呂不韋は誅殺を免れないと悟り毒を仰いで自殺した。
- その後秦王は六国統一の勢いに乗じ、「皇帝」の号を創始して自ら始皇帝と称し、天下を三十六郡に分け、兵器を鋳つぶし、金人十二を鋳造し、阿房宮など大規模な土木を興した。
東南の旺気と巡幸
- 始皇帝は東南に王者の気配が立つとの報告を受け、これを鎮めるため東方巡幸に出発し、鄒嶧山・泰山で功徳を頌え、太阿の剣を山に埋めるなどした後、咸陽へ帰還した。