三藩紀事本末ビルマへ檄し永明王を引き渡させる(檄緬取王)
李定国が緬甸に逃れた永明王の奪還を試みるが果たせず、白文選ら部将が次々と清に降る中で孤立を深める記録。緬人は最終的に王を清軍に引き渡し、王は雲南で処刑される。定国も王の死を知って発病し、順治十六年(1659)から康熙元年(1662)にかけて死去するまでを扱う。
年表(3件)
- 順治十六年己亥(1659年CE)李定国が潞江で敗れ緬境で敗残兵を集め恢復を図るが挫折する
- 順治十八年辛丑(1661年CE)定国が緬に王の引き渡しを求めるが叶わず、緬人が王を清軍へ引き渡す
- 康熙元年壬寅(1662年CE)永明王・妃・世子が雲南で処刑され、李定国も病没する
順治十六年己亥(1659年CE)
- 春二月、李定国は潞江で敗れ騰越から退いた。王が入緬したと知りつつ深追いを避け、木邦に屯していた白文選と合流を図るが、文選は王の護衛を志願し定国と方針が合わず決裂。定国は孟定府から耿馬を経て猛緬に屯営し、各地の敗残兵を集めて勢いを盛り返した。
- 数か月後、定国は孟連に移り、賀九儀や文選の部将張国用・趙得勝らが帰順。元江土司那嵩と結んで恢復を図るが、孟艮酋長の抵抗にあい定国は孟艮を攻略。清の大軍が元江を突いたため那嵩は自焼死し、計画は挫折した。
- 呉三桂は賀九儀の妻子が雲南にいることを利用して招降を図ったが、九儀に二心があると見た定国はこれを殺害。国用・得勝はこれを不満に思う。定国の部将唐宗堯が商人を掠奪したため、雲南・阿瓦の情報が定国のもとに届かなくなった。
- 文選は木邦から錫薄を経て阿瓦の新城を急襲するが、緬王の偽りの和議策に乗せられ機を逸して反撃を受け敗退、孟艮で定国に合流した(時に順治十七年庚子九月)。緬側は文選の敗退・定国の再来を予期し防備を強化した。
順治十八年辛丑(1661年CE)
- 四月、定国は阿瓦に至り王の引き渡しを求めるが緬人は拒否。防備の固さを見て定国は一旦退くが、緬軍が木城を築いて迫り五月に交戦、定国軍は一時劣勢に陥るが文選の加勢で緬軍を撃退した。渡河のため丁仲柳に造船させるが緬軍の奇襲で船は焼失。
- 定国は文選と共に洞鄔へ進み造船と新城攻撃を並行させるが、賀九儀の死を恨む国用・得勝が文選を伴って清朝への投降を図り、耿馬で定国の旧部下呉三省の軍と遭遇。文選は呉三桂配下の馬宝の説得を受けて降伏し承恩公に封ぜられた。王某の妃は文選の投降を知り自縊した。
- 十二月三日、緬人は数十人の夷人に王を担がせて連れ出し清軍陣営へ引き渡した。九日、大軍は雲南へ帰還し、皇帝は王の処刑を免じたが、翌年(康熙元年)四月二十五日に王・妃・世子は雲南で没した。
- 沅江総兵皮熊は王が捕らえられたと聞き水西へ逃れ絶食して抵抗、捕らえられても服さず十三日絶食の末に死去、遺体はさらに戮された。婿の趙黙も捕らえられ絶命詞を書いて処刑された。鄧凱は緬で王に従い、王の死後は昆陽の普照寺で僧となった。
- 李定国は阿瓦での顛末を知り車里・暹羅に援軍を求めるが失敗。六月十一日の誕生日に発病し、二十七日に死去。臨終に子の嗣興と靳統武に「異郷に死すとも降伏するな」と遺言した。定国の死後まもなく統武も没し、嗣興は清に降った。
康熙元年壬寅(1662年CE)
- 四月二十五日、永明王・妃・世子が雲南で没した(上に統合)。