三藩紀事本末永明王、ビルマに入る(永明入緬)
緬甸(ビルマ)へ逃れた永明王一行が、緬人の監視と侮りの中で阿瓦に居を定め、随行者の逃亡・殺害が相次ぐ困窮の様子。馬吉翔・李国泰の専横で朝廷の統制が失われ、順治十八年(1661)に緬の新王が随従の文武百官を呪水の儀と称して騙し討ちにするまでの順治十六年(1659)から順治十八年(1661)の経緯。
年表(3件)
- 順治十六年己亥(1659年CE)永明王が緬甸へ逃れ入関、緬人の監視下で阿瓦に至る
- 順治十七年庚子(1660年CE)緬王が沐天波に臣礼を求め、馬吉翔・李国泰が権を専らにする
- 順治十八年辛丑(1661年CE)緬の新王が王の随従を呪水の儀と称して騙し討ちにする
順治十六年己亥(1659年CE)
- 正月、永明王(南明政権)は雲南から永昌へ向かい、緊迫した情勢が続いた。二月十五日、李定国は靳統武に兵四千を率いさせて永昌から出発させ、十八日に騰越へ到着。輜重の護送を急ぐあまり、王は夜を徹して行軍した。
- 二十八日、銅璧関に至り統武は引き返し、王は定国の指揮下に戻った。緬人は武装解除を条件に入関を許可。同日、蛮漠に宿営、緬人は一応の礼を尽くして迎えた。昆明の生員薛大観・薛之翰父子は王の入緬を聞き黒竜潭に投身自殺。二十九日、北定に駐留。
- 三月一日、河岸に到着したが渡河用の舟は四隻しかなく、随員の多くは陸路を強いられ、途中で通政使朱蘊金・中軍姜承徳・副総兵高升ら十数名が賊に殺害された。
- 初六日出発、二十四日に阿瓦へ到着。冊宝の真贋を疑われたが沐国公の印を照合して信用を得た。王と文武の臣は旧城に居し、関所には漢兵を入れぬよう命じた。
- 三月十七日、陸路組が緬に着いたところ内応を疑われ攻撃を受け死傷者多数、生き残りは各村に分散して住んだ。総兵潘世栄は緬に降ったとも途中で殺されたとも伝わり、詳細は不明。
- 五月四日、緬王は竜舟で王を出迎え、八日には竹造りの仮宮十間を用意。随行の臣の中には緬人の女と戯れ笑いものにされる者もあった。
- 八月十五日、諸蛮が朝見に来るのに先立ち、十三日に沐天波を先に渡河させ緬の風習(跣足の礼)にならわせ、諸蛮に臣礼を示させた。九月、緬王は貧民に稲穀を給した。
順治十七年庚子(1660年CE)
- 七月、緬王は再び沐天波の渡河を求め、王朝側の漢兵を関に近づけぬよう求めた。九月、李定国はしばしば奏疏を送ったというが(前後三十余通のうち届いたものはなかったと伝わる)、王の元へは届かなかった。
- この頃、馬吉翔と李国泰が結託して権を専らにし、群臣が困窮しても取り合わず、王が寶璽を投げつけて怒りを示すほどであった。翔はその璽を打ち砕いて諸臣に分け与えるという横暴ぶりであった。
順治十八年辛丑(1661年CE)
- 任国璽は東宮の進講のため宋末の得失をまとめた書を進呈しようとしたが馬吉翔に妨げられた。五月、璽は「時事三不可解」の上疏で危急を訴え、翔・泰の専断を批判、王祖望・鄧居詔らも弾劾したが、王は翔・泰を抑えられなかった。この間、賭博や内紛が横行し、緬人にますます軽んじられた。
- (先立って)二月二十八日、白文選は密使を送り、緬人に護送させるのが上策と進言し王も応じたが、渡河用の浮橋を架ける計画は緬人に察知され頓挫した。
- 三月、錦衣衛の趙明監らが世子を脱出させ馬吉翔・李国泰を殺す計画を立てたが露見し、結盟して緬に投じたと誣告され、王啓隆の家人らが処刑された。
- 七月二十三日、緬の新王(兄を殺して自立)は王の随従の文武百官を渡河させ、儀礼(呪水を飲ませる行事)と称して騙し討ちにし、松滋王某・沐天波・馬吉翔ら数十名を皆殺しにした。ほどなく兵三千で王の居所を包囲し多数を殺害・略奪。自ら縊死・絞殺された者も数え切れず、吉王夫妻・貴人楊氏劉氏・松滋王妃をはじめ多くの家臣・侍女が殉じた。姜承徳の妻楊氏、馬吉翔の四女、王啓隆の妻妾、呉承爵の妻子、斉環の妻子なども相次いで自尽した。
- 二十一日、王の居所を修復し戻し、二十五日には銀・米などが献じられた。