三藩紀事本末孫可望・李定国、清に投降する(孫、李奔北)

孫劉構隙の続編。李定国が桂林・衡州で清軍を破り一時は南明の勢いを盛り返すが、孫可望との対立が続き、可望が敗れて清に降伏したのちも清の三路軍による攻勢を防ぎきれず、順治十六年(1659)に永明王が雲南を追われ緬甸へ逃れるまでの順治九年(1652)から順治十六年(1659)を描く。

年表(7件)

順治九年壬辰(1652年)

  • 春二月、清の定南王孔有徳が七百騎で河池から貴州へ向かい、大軍は柳州で接応。孫可望は内地への侵攻を企て、李定国・馮双礼を黎平から靖州へ、馬進忠を鎮遠から沅州へ進ませ武岡で合流し桂林攻略を、劉文秀・張先璧を永寧から敘州へ、白文選を遵義から重慶へ進ませ嘉定で合流し成都攻略を図らせた。可望は定国を西寧王、文秀を南康王に封じるよう上奏した。
  • 五月、定国は靖州・沅州・武岡を攻略、孔有徳は桂林に退いて守る。定国は西延の大埠から進撃、清軍とは全州で衝突し不利。七月四日、定国は桂林を陥落させ、先に降伏していた陳邦傅とその子曾禹を捕らえ貴州へ送って皮を剥いで処刑した。孔有徳は自ら首をくくり、家族百二十人も皆殺しにされたが、十七歳の娘一人だけが単騎で脱出し都へ逃れ皇帝に窮状を訴え、宮中で養われた後にもとの夫孫延齢のもとへ帰った。十一月、清の敬謹親王ニカン(尼堪)が衡州を攻めるが定国に敗走を装われて追撃中に伏兵に遭い戦死。固山佟図頼がその軍を監督した。定国は兵を収めて武岡に駐屯。

順治十年癸巳(1653年)

  • 春、定国は広西へ戻る。可望は定国を呼び戻そうとするが応じず、自ら兵を率いて追う。清の大軍は宝慶で可望軍と遭遇、双礼が左翼、文選が右翼を率いる中、可望の龍旗を見た清軍が急襲、可望は敗走するが双礼の軍だけは動かなかった。清軍は衡州失陥の失態を鑑み深追いせず武岡・宝慶の間を境界とした。定国はこうして広西を確保し、馬宝とともに懐集から肇慶・広州を攻めるが落とせず、秋には高州を破り雷州・廉州も陥落させた。

順治十二年乙未(1655年)

  • 可望が常徳を攻めるが敗北。定国は新会を攻めるが落とせず。

順治十三年丙申(1656年)

  • 春、清の平南王が定国軍を撃破。定国は南寧へ逃れ、さらに安隆に至り王を奉じて雲南へ向かう。

順治十四年丁酉(1657年)

  • 可望が清軍に降伏。

順治十五年戊戌(1658年)

  • 正月、清は楚・蜀・粤の三路から貴州へ進軍を命じる。定国は劉正国・楊武に三坡・紅関などの要害を守らせ蜀軍に備え、馬進忠を貴州に駐屯させる。四月、夔国公王自奇・永寿伯関有才が反乱を起こすが定国自ら討伐し平定。楚軍が鎮遠から貴州に入り危急を告げるが定国は援軍を送れず、貴州は陥落し進忠は逃走。蜀軍が三坡に至ると劉正国は雲南へ逃げ帰り、蜀軍は遵義を制圧。五月、蜀軍は開州の倒流水で楊武を撃破。七月、粤軍が独山州に至る。十月、三路の軍がすべて集結し雲南攻略の期日が定まる。定国は双礼らと雞公背に拠って貴州回復を図り、文選は七星関を守って遵義侵攻を装い蜀軍を牽制した。
  • 十二月、蜀軍は遵義を出て天生橋から烏撤に入り、文選は恐れて沾益州へ退いた。泗州土官の岑継禄の手引きで粤軍が安隆に入り、定国は懐仁侯呉子聖に迎撃させるが敗北。定国自ら軍を返して防戦するが連敗、本営と妻子を失い諸将は各自敗走してかえりみず、馬宝らは相次いで清に降伏。定国は陣を撤いて逃げ帰った。十五日、報が届くと王は永昌へ逃れた。

順治十六年己亥(1659年)

  • 正月三日、清軍が雲南に入る。二月、文選は玉龍関で敗れる。もと文選は沾益から定国を追ってきて、しんがりを命じられていた。二月、清軍は雲南を出撃。十月、王国勲を普淜で破り、十五日には大理の玉龍関に至り、文選は張先璧・陳勝とともに敗北。文選は沙水和から右甸へ逃れ、鎮康を経て木邦へ出た。定国はあらかじめ潞江の高黎貢山に伏兵を置いていたが、十八日に清の大軍が永昌に至り、二十一日に潞江に迫った際、先鋒が伏兵に遭い苦戦。折しも中書の盧桂生が投降し定国の計略が漏れたため、精鋭を先に潜ませていた伏兵を分散させ、定国は本隊の清軍に対抗できず退いて騰越から孟定へ走り、王はすでに緬甸(ビルマ)へ入っていた。