三藩紀事本末孫可望・李定国の確執(孫、劉構隙)
張献忠の死後、その残党を率いた孫可望と李定国・劉文秀らの間に生じた確執の経緯。可望が皇帝僭称の野心を抱きつつ朝廷への帰順を求める一方、定国との対立が深まり、安龍での謀略事件を経て順治十四年(1657)に可望が敗れて清に投降するまでの、崇禎十七年(1644)から順治十五年(1658)を扱う。
年表(10件)
- 崇禎十七年甲申~順治三年丙戌(1646年)1644年張献忠死後、孫可望ら残党が重慶を奪い蜀を制圧する
- 順治四年丁亥1647年可望が雲南を平定し皇帝僭称の準備を進めるが定国らと対立する
- 順治六年己丑1649年可望が定国を杖罰し孫李の亀裂が始まる、楊畏知が朝廷に帰順を仲介
- 順治八年辛卯1651年賀九儀が反対派を粛清し可望は正式に秦王に封じられる
- 順治九年壬辰1652年可望が王を安隆へ移し、定国との統制を巡る対立が深まる
- 順治十年癸巳1653年可望は敗走し宗室を殺害、王は密かに定国を晋王に封じ迎えを図る
- 順治十一年甲午1654年安龍の陰謀が露見し呉貞毓ら十八人が処刑される
- 順治十三年丙申1656年白文選が可望を離れ定国側につき、王は雲南に入る
- 順治十四年丁酉1657年可望が反旗を翻すが敗れ、清の洪承疇に投降する
- 順治十五年戊戌1658年可望が清の都で義王に封じられる
崇禎十七年甲申(1644年)~順治三年丙戌(1646年)
- 崇禎十七年、張献忠が蜀を占拠し帝を僭称。順治三年、清の粛親王が西征し西充県の鳳凰坡で献忠を討ち取った。その配下、偽平東将軍孫可望・偽安西将軍李定国・偽撫南将軍劉文秀・偽定北将軍艾能奇・偽都督白文選・馮双礼らは残兵をまとめ重慶府を奪い平蜀侯曾英を殺害した。
順治四年丁亥(1647年)
- 春、遵義から貴州に入る。この頃、雲南では土司沙定洲が反乱を起こし省城を占拠、黔国公沐天波は永昌へ出奔していた。定洲は兵巡道楊畏知が楚雄で挙兵したと聞き楚雄を包囲するが落とせずにいた。可望は雲南の混乱を聞き急行、三月二十八日霑益州を、翌日曲靖を屠る。定洲は阿迷へ撤退し可望軍と蛇花口で衝突して大敗、可望は雲南を奪取。宗室の壽𮢅は永明王の命で雲南で募兵していたが可望に捕らわれ降伏を拒んで殺害され、巡按御史羅国瓛も死んだ。
- 可望は西へ進み禄豊で楊畏知と戦って大破、捕らえるが「明室の再興を共に助ける」との約束で降伏させた。大理に至り沐天波に使者を出し永昌の道府印を求めると、署府篆の劉廷標・署道篆の王運開は「行けば我らも降伏したことになる」と相次いで自縊。運開の弟運閎は入水し、天波も降伏した。可望は自ら平東王を称し、劉文秀らに雲南を守らせた。
- 可望は貴州に戻り、総兵皮熊を一度捕らえて釈放。皮熊は平越で兵を集め貴州を回復していたが可望の帰還に抗しきれず清浪衛へ逃走、可望は白文選に追わせて捕らえさせた。可望は貴州で官を設け貨幣を鋳造、符敕を作るなど皇帝僭称の準備を進めたが、定国・文秀ら旧来対等な立場の諸将が各々王を称して従わず、特に定国は強硬で意見が対立した。
順治六年己丑(1649年)
- 春、可望は演武場で定国を杖罰し威を示す。孫・李の亀裂はここに始まる。定国は沙定洲を湯嘉賓砦で捕らえ処刑し兵威を高め、可望は制しきれず皇帝僭称の意図を一旦収めた。
- この頃、永明王は広東で自立して四年。可望は配下を制しきれず朝廷への帰順を望み、楊畏知を粤へ遣わした。武康伯胡執恭は可望の勢威に頼ろうと勝手に「秦王」の冊封を偽り、畏知はこれを喜んだ。畏知は肇慶で王に帰順の意を伝え封号を求めるが、大学士厳起恒・都御史袁彭年・給事中金堡らは反対、畏知は「可望の兵力は強く利用すべきだ、なぜ一つの封号を惜しんで敵に回すのか」と説き、督師堵胤錫も同調。結局「景国公」朝宗の名を賜ることで議が決まり、定国・文選は列侯とされた。
- 胤錫はかつて空の勅を賜っていたため独断で「平遼王」に改めて命を伝えた。使者が至ると可望はすでに秦王の封を受けていたため受け入れず、梧州へ問い合わせて初めて矯詔の事実が発覚。馬吉翔は改めて「徴江王」を提案するが使者は「秦でなければ復命できない」と拒否、厳起恒・楊鼎和・劉堯珍らが強く争って議は沙汰止みとなった。
- 順治七年庚寅(1650年)十一月、清軍が広州を破り桂林を落とすと王は南寧へ逃れ事態が切迫、編修劉茝を遣わして可望を「冀王」に封じるが、可望はなお受けなかった。この頃、艾能奇はすでに死去しその部隊を可望が併呑、勢力はいっそう強大に。
順治八年辛卯(1651年)
- 可望は賀九儀・張勝・張明志を南寧へ遣わし「秦」封に反対した者を粛清させる。九儀は崑崙関で楊鼎和を追殺、厳起恒を殺して水に投げ、屍は三十里流されるが虎が岸に担ぎ上げたため収葬された。劉堯珍・呉霖・張載述らも殺害。呉霖・張載述は反対していなかったが、かつて主唱者を弾劾したことを理由に殺された。ここに至り可望は正式に秦王に封じられた。
- 楊畏知は九儀の凶暴を見て痛哭して朝廷に入り、その専断殺害の罪を訴え誅殺を求めた。王は畏知を内閣に留めようとするが、可望はこれに激怒し鄭国に命じて畏知を捕らえさせた。畏知は可望に会うなり罵倒し冠を投げつけたため、可望に殺された。可望と昔から親しかった劉文秀は畏知の死を悼み、可望への恨みをいっそう深めた。
順治九年壬辰(1652年)
- 清軍の圧迫が強まり南寧も持ちこたえられなくなる。春二月、可望は隙に乗じて王を安隆へ移す。この頃すでに清軍は湖南を取り両広を平定、定南王孔有徳が貴州に進軍していた。定国はこれを迎撃して靖沅・武岡を連破し桂林に入り、その勢いで可望の統制に従わなくなり、可望は憤りを募らせた。やがて衡州の戦いで定国が敗れると、可望は議事と称して沅へ召び敗戦の隙に殺そうと図るが定国はこれを察知して赴かず粤西に入った。もとより可望は馮双礼に定国を邀撃させて敗れたが、捕らえた定国を釈放したため双礼は定国に心を寄せるようになっていた。
順治十年癸巳(1653年)
- 可望は自ら兵を率いて定国を追うが清軍と遭遇して敗走、帰還後、貴州にいた明の宗室をことごとく殺害。王は安隆で日々窮迫し、可望と定国の不和を知って大学士呉貞毓と謀り、まず可望の腹心馬吉翔を南寧へ祭陵の名目で遠ざけ、林青陽を使者として定国を晋王に封じ密かに迎えを求めた。定国は感激するが、可望に長く兄事してきた恩義から軽々に動けずにいた。ある日、劉議新が定国営から南寧に立ち寄り吉翔にこの件を漏らし、吉翔は驚いて可望に報告した。
順治十一年甲午(1654年)
- 可望は鄭国・王愛秀を安隆へ遣わし首謀者を問い質す。閣臣呉貞毓は厳しい拷問を受けても「万事は宰相の判断、李定国と孫可望討伐を約したのは事実だが他の者は与り知らぬ」と述べたが、吉翔がすでに十八人を首謀者として告発済みで冤罪が組み立てられていた。主事張鐫・宦官張福禄・全為国は凌遅の刑に処され、蔣乾昌・李元開・李欣・胡士瑞・徐極・楊鐘・趙賡禹・蔡演・鄭允元・周允吉・朱議昹・朱東旦・任斗墟・易士佳らは棄市、大臣であった呉貞毓は自尽を賜った。可望は定国への恨みを深めるが、兵を外に置いている定国を軽々に敵に回せず、その妻子は雲南で厚遇して人質同然に留め置いた。
順治十三年丙申(1656年)
- 定国は新会を攻めるが大敗し、残兵を率いて南寧に走り、そこから安隆を経て雲南に入ろうとする。可望はこれを察知し白文選を遣わして王を貴州へ連れ戻そうとするが、文選は内心可望のやり方に不満を抱いており「しばらく行くのを遅らせよ、西府(定国)が来るのを待て」と密かに王に告げた。定国が安隆に至ると文選は帰順、共に王を奉じて雲南に入り、王は文選を鞏昌王に封じた。この頃雲南を守っていたのは劉文秀・王尚礼・王自奇・賀九儀。文秀はかねて可望を恨んでおり、単騎で定国を迎え王を雲南に導いた。王は文秀を蜀王、尚礼を保国公、自奇を夔国公に封じ、文選を貴州へ戻し慰撫させたが、可望は文選が定国側についたことを恨み、部隊を奪って軍中に留め置いた。文選は妻子がなお雲南にいたため反抗はしなかった。
順治十四年丁酉(1657年)
- 王が張虎に命じ可望の妻子を貴州へ送らせると、可望はついに反旗を翻す。可望配下の馬進忠・馬惟興・馬宝はもとより文秀と親しく文選とも交流が深かったため、可望に「諸将中、文選以上の器量の者はいない」と進言し、可望は文選を大将軍に任じ軍の先鋒とした。九月、定国・文秀軍が三坌河に至り可望軍と対峙、文選が軽騎で定国に投降。可望は張勝・馬宝に間道から雲南を襲わせつつ自ら定国を攻撃するが、十九日の戦いで馬惟興らが内応し軍は瓦解、可望は貴州へ狼狽して逃げ帰った。雲南を襲った馬宝も戦わずして降伏、張勝は捕らえられ処刑、王尚礼は服毒死。定国・文秀・文選は可望を貴州で追い詰め、可望は妻子を連れ長沙へ逃げ清の経略洪承疇の軍に投降した。馮双礼は可望のしんがりを務めた後、子女や財物を携えて文秀に降り雲南に帰した。王は双礼を慶陽王、進忠を漢陽王に封じ、惟興・馬宝・九儀を公爵に進めた。可望に加担した狄三品・王会・張光翠は爵位を降格された。もっぱら阿諛によって仕えた馬吉翔は変わらず内閣で用いられた。
順治十五年戊戌(1658年)
- 正月、可望は清の都へ至り義王に封じられた。