三藩紀事本末瞿式耜、広西に殉ずる(瞿式耜殉粵)
広西巡撫となった瞿式耜が、永明王を肇慶で監国に推戴し、以後桂林の防衛に生涯を捧げた記録。李成棟の帰順を巡る内政の混乱や諸将の掠奪に苦しみながら桂林を守り続け、順治七年(1650)の陥落に際して逃げず、張同敞と共に捕らえられて処刑されるまでの順治二年(1645)から順治七年(1650)の経緯。
年表(5件)
- 順治二年乙酉1645年瞿式耜が広西巡撫となり永明王を肇慶で監国に推戴する
- 順治四年丁亥1647年桂林陥落の危機を焦璉と共に凌ぎ、両広を回復させる
- 順治五年戊子1648年郝永忠の掠奪や李成棟の帰順を巡る混乱の中、桂林に留まり続ける
- 順治六年己丑1649年何騰蛟の被虜・李成棟の敗死を経て留守と軍馬統轄を命じられる
- 順治七年庚寅1650年桂林陥落に際し逃げず捕らえられ、張同敞と共に処刑される
順治二年乙酉(1645年)
- 八月、福王政権はもと戸科給事中の瞿式耜を応天府丞に起用、まもなく右僉都御史に進めて方震孺に代わり広西巡撫とした。この頃、靖江王朱亨嘉が桂林に拠っていたが、式耜は焦璉と謀って思恩参将陳邦傅に命じ桂林を攻めさせて亨嘉を捕らえ、福州で処刑した。
- 九月、唐王が汀州で没すると、式耜は瞿魁楚とともに永明王由榔を肇慶で監国に推戴。王は式耜を吏部右侍郎・東閣大学士兼掌兵部事とした。十月、王は贛州陥落の報に梧州へ移ろうとするが式耜が諫めるも聞き入れられず。十一月、唐王の弟聿𨮁が広州に拠り、総督林佳鼎が敗死。式耜は峡口に出陣した。
順治四年丁亥(1647年)
- 清軍が広州を破り肇慶に入り梧州にも迫ると、巡撫曹曄は降伏、清は平楽も襲う。王は全州へ逃れようとし、式耜は「粤を守れば粤は在り、粤を去れば粤は危うい。我々が一歩進めば敵も一歩進み、我々が一日早く退けば敵も一日早く来る」と強く諫めたが聞き入れられず、王は全州へ去る。式耜は文淵閣大学士兼吏・兵両部尚書に進み桂林を守った。
- 三月、清軍が桂林に迫り文昌門を突破して城楼に登り式耜の官署を見下ろす勢いとなったが、援将焦璉が力戦、式耜自身も矢石の中に身を置き士卒と苦楽を共にした。援兵が給与を求めて騒いだ際、式耜は倉庫を尽くしても足りず、妻の邵氏が簪や耳飾りを供出して助けたため、兵に叛意は生じなかった。主客の兵が不和になり璉の兵が騒いで一時離れ、城は陥落寸前となったが、陳邦彦が広州を攻めたため清軍は東へ転じ桂林は難を逃れた。以後、焦璉は陽朔・平楽を、陳邦傅は潯州を回復、両者合流して梧州も回復。王は式耜を臨桂伯、璉を新興伯に封じた。十一月、清軍が湖南から桂林に迫るが式耜は何騰蛟とともに退けた。
順治五年戊子(1648年)
- 二月、桂林に駐屯した郝永忠が団練兵と不和になり水東十八村を破壊し尽くした。清軍と靈川で戦って敗れると再び大掠奪、太常卿黄太元を殺害。趙印選ら諸将の兵も霊州から桂林へ大掠奪しながら至り、城内は洗い流されたようになった。清軍は桂林の内紛を聞き急襲するが騰蛟がこれを防ぎ切った。
- 閏三月、李成棟が広東で清に叛いて帰順し王を広州へ迎えようとするが、式耜は成棟に主導権を握られることを懸念して強く諫め、王は肇慶に留まった。成棟は「式耜は擁立の功臣であり久しく外にあるべきではない」と上奏し王が式耜を召すが、式耜は国事を成棟に譲り自らは桂林に留まることを願った。十一月、永州・衡州・宝慶が相次いで回復すると式耜は好機として王に桂林帰還と湖南進出を求めるが聞き入れられなかった。
順治六年己丑(1649年)
- 正月、何騰蛟が湘潭で捕らえられる。二月、李成棟が信豊で敗死。王は式耜に留守と江・楚各省軍馬の統轄を命じた。清朝も式耜に降伏を招くが応じなかった。
順治七年庚寅(1650年)
- 正月、南雄陥落の報が届き羅成耀が逃走、韶州も失われる。九月、全州が陥落。桂林の趙印選、榕江の胡一青・王永祚はいずれも恐れて動けず、清軍は厳関を突破。十月、榕江も失陥。十一月、諸将はことごとく逃げ去り城中に一兵もなくなったが、式耜は府中に端座して動じなかった。折しも総督張同敞が霊川から戻り式耜に会って死を共にすると誓う。二人は共に捕らえられ民家に幽閉され、詩を唱和して過ごした。閏十一月、風洞山下で処刑された。
- 出家してのちに澹帰と号した旧給事中の金堡が定南王に上書し式耜・同敞の遺骸の収葬を願ったが、聞き入れられなかった。呉江の呉秇がこれを収め、北門の園に葬った。