三藩紀事本末楊廷麟・劉同升・萬元吉、贛州に殉ずる(楊、劉、萬殉贛)

劉同升・楊廷麟・万元吉が贛州を拠点に抗清を続けた顛末を描く。北京陥落の報に義兵を挙げ忠誠社を結んで吉安を回復するも、援軍の欠乏と内部の不統一で贛州は長期の包囲に耐えきれず、順治三年丙戌(1646年)に陥落。万元吉・楊廷麟をはじめ多数の官吏・士人が殉節した。崇禎十七年(1644年)から順治三年(1646年)までの約2年間。

年表(3件)

崇禎十七年甲申(1644年)

  • 李自成が北京を陥落させたとの報に、江西在籍の翰林院修撰・劉同升は慟哭し、江西十三郡の紳士に義兵を挙げて復讐するよう檄を発した。
  • 南昌に至り職方主事の楊廷麟と合流、紳士を集めて崇禎帝のため喪を発し、挙兵を誓った。
  • 福王政権は同升に中允、廷麟に左庶子を授けたがともに辞退。
  • 福州で即位した唐王は同升を少詹事・兵部侍郎兼江西総理に、廷麟を東閣大学士に任じたが、両者は国が破れ君主が亡くなった状況で海辺に安住するのは得策でないとして拝命を辞し、江西巡撫李永茂とともに義旗を挙げた。
  • 広東から入衛のため通過中の兵三千を引き留め、贛州に忠誠社を立てて四方の士を招いた。王其宖・王其窿・劉明保・彭曰趣らが自弁の家丁を率いて集い、約二万人に達した。
  • 廷麟は城西で士を饗し、兵を率いて万安を収復、泰和に至り吉安全郡を回復。表を奉じて唐王を贛へ迎えた。

順治二年乙酉(1645年)

  • 十一月、李永茂は父母の喪により帰郷。万元吉が総制として贛に至り、同升・廷麟と方策を練った。
  • 十二月、劉同升は雩都で病没し、その志は果たされなかった。

順治三年丙戌(1646年)

  • 元吉はかつて楊嗣昌・史可法の幕僚として、江西総兵金声桓と親交があった。声桓が江右を収復した際に元吉を招いたが、元吉は志の違いを理由に固辞、声桓も強いなかった。この頃、元吉は金声桓を招撫して省城恢復を図ろうと書を送り、声桓の心は動いたが決断には至らなかった。
  • 三月、吉安守将・胡長蔭が元吉の節制に背いて敗れ、吉安が再び失われる。元吉は皂口に走り入水を図るが、永豊県令に止められ贛州に戻って守った。清軍が追撃して万安を奪い贛州を包囲、声桓との連絡も途絶えた。
  • 正月、廷麟は峒族の賊四万を招降し「四営」と称した。うち張安の部隊は驍勇で龍武新軍の名を賜る。元吉はこれを頼みとして雲南・広東の援軍を軽んじたため、諸軍の心が離れた。
  • 五月、江西巡撫劉遠生が張琮を督して梅林で援軍を送るも敗北、龍武新軍も敗れる。以後、援兵は前進を恐れるようになった。元吉は客将が命令に従わず民に害を為すことを憂い、土着の民を訓練して交代で出撃させ、多少の戦果を得たが、軍紀に厳しすぎたため兵士に慕われなかった。
  • 贛州包囲が長引く中、唐王は郡名を「忠誠」と賜り、元吉を兵部尚書、楊文薦を僉都御史に加官した。
  • 六月から七月にかけ、広東・雲南・両広総督などから続々と援軍が到着し軍勢は一時盛んになったが、元吉は大軍が揃うまで決戦を待とうとした。水軍を率いる元海賊の羅明受は制御が難しいと危惧されたが、八月、清軍が水軍の接近を察知して先手を打ち夜襲で船八十隻を焼き、明受は逃走。これにより諸営は総崩れとなった。元吉の弟・六吉が調達した広西の狼兵八千も戦わずして潰走した。
  • 十月、唐王が汀州で落命した報が届き、城中の士気は完全に萎えた。清軍が霧と雪に紛れて夜、城壁を越え、城は陥落。元吉は市街戦の末、東関で「大事去れり」と嘆じ、貢江に身を投げて死んだ。楊廷麟は清水塘で死し、清将賈熊はその忠義を惜しんで四枚の門板を棺として東門外に葬った。郭維経・姚奇胤は嵯峨寺で共に縊死。彭期生は衣冠のまま自縊。周瑚は捕らえられ磔刑に処された。その他、通判・編修・給事中・主事・挙人・庠生・貢生ら多数の官吏・士人・庶民が、一族で入水・自縊・焼身するなどして殉じた。織工の熊国本は義兵に加わり捕らえられた際、「織り手が義を知らぬというなら、挙人たる者はなおさら不義を為してよいのか」と言い放って斬られた。参将陳烈は弟が清に降ったが自身は奮戦して捕らえられ、降伏を拒んで殺された。流寓の身で共に難に遭った者に広東提学道の符溯中・述中兄弟、新喩の進士万発祥、廬陵の庠生段之渾、新喩の庠生蕭瑛らがいた。