三藩紀事本末益王、湖東を乱す(傅鼎銓・揭重熙を付す)(益藩擾湖東附傅、揭)
建昌の益王とその一族による江西湖東地方での抵抗、および揭重熙・傅鼎銓ら義兵の戦いを描く。益王は保寧王の裏切りで敗れ、永寧王慈炎の再挙も敗死に終わったが、揭重熙・傅鼎銓は順治六年から八年(1649-1651年)にかけてなお抗戦を続け、最終的に相次いで捕らえられ処刑された。崇禎十七年(1644年)から順治八年辛卯(1651年)までの約7年間。
年表(5件)
- 順治二年乙酉六月(益王の挙兵と保寧王の裏切り)1645年益王が湖東で挙兵するも内通した保寧王の裏切りで敗れた
- 順治二年乙酉(永寧王慈炎の再挙と敗死)1645年永寧王慈炎が湖東で再挙するも清将王得仁に捕らえられ死んだ
- 甲申の変(崇禎十七年/)〜順治三年丙戌(1646年)(揭重熙の湖東起兵)1644年揭重熙が北京陥落を受け湖東で挙兵し軍務を統括した
- 順治三年丙戌〜五年戊子(1648年)(湖東各地の攻防)1646年重熙・傅鼎銓が撫州回復など湖東各地で清軍と攻防を続けた
- 順治六年己丑〜八年辛卯(1651年)十一月(揭重熙・傅鼎銓の最期)1649年傅鼎銓・揭重熙が相次いで清に捕らえられ処刑され江西の抗清が尽きた
順治二年乙酉(1645年)六月(益王の挙兵と保寧王の裏切り)
- 益王朱由本は建昌に封じられていた。南京・北京が相次いで陥落すると、郡紳が挙兵を勧め、儀賓の諸生鄧思銘が「藩王は臣にも子にも通じる立場であり座視できぬ」と義兵の議を主唱し、財ある者は糧を助け、才ある者は参謀を、勇ある者は出陣をと呼びかけ、王は感激した。ただし王は年少で武事に不慣れなため、戦守の実務は郡藩の永寧王慈炎と羅川王に委ねられた。
- 羅川王は東郷の艾命新・艾南英と謀り、諸紳士に檄を回して劉琦・楊独龍・僧丹竹ら三十六人を集め、南英の家で盟を結び義勇七、八千を得た。王・謝の二紳が私財を投じ、兵勢はやや振るった。
- ところが河南から来た「保寧王」なる者が兵略を語って王の信を得ていたが、実は密かに清将王体忠に通じ、王はそれを知らなかった。援軍に来た雲南総兵趙印選の象兵を戦の最中に保寧が背後から火矢で乱し、味方は総崩れとなって王は旗塘の仏舎に逃れた。その後福州の唐王のもとに身を寄せたが、福州陥落の際に捕らえられ殺された。
順治二年乙酉(1645年)(永寧王慈炎の再挙と敗死)
- 永寧王慈炎は寧都に逃れ、さらに広東に入って蕭・閻の兵を招いて再興を図った。前日、蕭升・閻総が紅日が門に臨む夢を見て吉兆とし、翌日永寧が到着したのでこれに従った。永寧は湖東に出兵して建昌を回復し、勝ちに乗じて撫州・進賢県を落とした。
- 羅川王と艾命新は先に撫州を落としたが守り切れず、貴渓・東・安仁の兵を集めて許灣に退いていたところ、永寧が撫州・建昌を回復したのを見て合流し、江西回復を図った。しかし広東からの援軍と羅川の兵が舎営を巡って争い、羅川が仲裁に出た際に流れ矢が喉に当たって死んだ。
- 永寧は糧が続かず進賢を捨てて撫州を守ったが、清将王得仁の包囲を受けさらに糧を失い、建昌へ退く途中で得仁に追いつかれ捕らえられて死んだ。
甲申の変(崇禎十七年/1644年)〜順治三年丙戌(1646年)(揭重熙の湖東起兵)
- もと福寧州知州の揭重熙は副総兵洪日升と共に北京陥落(甲申の変)を受けて勤王の兵を挙げ、南京で吏部考功司主事に任じられたが父の喪で帰郷した。順治三年(南京では乙酉年に陥落)に江西も清の版図に入ると、重熙は郷勇の徐組綬・万民望・王宏らを再び集めて湖東で挙兵した。益藩の挙兵に呼応しようとしたが果たせず、清将王体忠に建昌を囲まれると援軍に赴くも許灣で敗れ、吏部主事王兆熊に弾劾された。
- のち曾櫻の推挙で唐王から攷功員外兼兵科給事中に任じられ、傅冠と共に湖東の軍務を担当。さらに検討の傅鼎銓が兵科給事中を兼ねて泰寧から出兵し義兵を募った。瀘溪の危急を傅冠が救えなかったため重熙が冠を弾劾して更迭させ、軍事は重熙の専管となった。
順治三年丙戌(1646年)〜五年戊子(1648年)(湖東各地の攻防)
- 永寧王の敗死後、重熙は福州へ赴き、諸将を率いて金渓を落とし撫州を回復、勢力は千を超えた。右僉都御史に任じられ湖東巡撫を代行したが、諸将の足並みが揃わず瀘溪に退き、清軍と銅蒲墜・師姑嶺・高田・孔坊で交戦していずれも勝った。
- 三年丙戌八月、福州陥落。傅鼎銓は寧都で田海忠に援兵を求めたが応じられず、自ら郷勇を集めて宜黄を回復し楽安に駐屯した。重熙は清軍の入関を聞いて福州救援に向かったが王が贛州へ退いたと知り急行、しかし清軍の急襲を受け大敗し、散兵を集め撫州を攻略したものの中軍洪深が陣没し兵は千人ほどに減った。重熙は王洞に退き、安東・金貴の砦に潜んで機をうかがい、自身は占い師に扮して南昌に潜入し様子を探った。
- 五年戊子、金声桓が南昌で清に反旗を翻すと重熙・鼎銓をまず招いたが、両者は省城に留まらず福建方面の軍務を望んだ。清の譚固山が南昌を包囲すると重熙は広東へ援軍を求めに赴き、鼎銓は張自盛と合流して南昌救援に向かったが三江口で敗れた。重熙は肇慶で永明王(永暦帝)から兵部尚書兼右副都御史・江西兵総督に任じられたが、着任前に南昌は陥落。募兵しつつ進む途上、程郷で清軍の急襲を受け大敗し、監軍桂泓は陣没、重熙も矢を三本受けながら辛くも逃れた。
順治六年己丑(1649年)〜八年辛卯(1651年)十一月(揭重熙・傅鼎銓の最期)
- 金声桓・王得仁が敗死すると、旧部将の張自盛・洪国玉らが重熙の湖東出兵の新命を聞いて次々帰参し、寧都・石城の間に大軍が集結した。鼎銓は朝廷への召還を望まず、監軍陳化龍を浙東に走らせ、徐孝伯らも軍を率いて合流した。
- 七年庚寅、重熙は閩にいた張自盛の軍へ赴き、曹大鎬と広信で合流を約した。福建境に入ったところを清軍に幾重にも包囲されたが、偽って敗走を装い伏兵で挟撃して大勝し、諸郡県を平定、撫州にまで迫り清将をあわや捕らえかけた。
- 八年辛卯、鼎銓は広信の張村で清の守将に捕らえられた。江西巡撫夏一諤が降伏を勧めたが応ぜず、重熙への招降の書も拒み、八月五日に処刑された。処刑前、遺品の中には自らの死年だけ記し月日を空けた位牌が用意されていた。張自盛は邵武で敗れ捕らえられた。重熙は数十人を率いて曹大鎬のもとへ向かったが大鎬はすでに撤退しており空営に至ったところを清軍に包囲され、首を射られ建寧に護送、日々死を求め続け、十一月三日に南街の市で処刑された。
- まもなく曹大鎬も敗れ、都昌で挙兵していた督師余応桂もこの年に死んだ。応桂は万暦己未(1619年)の進士で、かつて御史として周延儒を弾劾した剛直の士。金声桓・王得仁の乱に際し都昌で挙兵し会城に迫ったが落星湖で敗れ、再挙を図るも南昌はすでに平定されており、清将楊捷の急襲を受けて捕らえられ、子の顕臨や中軍帥師とともに殺された。こうして江西における抗清の兵は尽きた。