三藩紀事本末魯王、浙東に拠る(魯藩據浙東)
魯王朱以海を奉じた浙東の監国政権の興亡を描く。銭塘江を挟んだ攻防で一時は清軍を退けたが、順治三年丙戌(1646年)に防衛線が崩壊し多くの重臣が殉節、魯王は海上へ逃れて舟山を拠点にするも、順治八年辛卯(1651年)に舟山も陥落した。最終的に鄭成功のもとで順治十一年甲午(1654年)に海に沈められて最期を遂げた。順治二年乙酉(1645年)から順治十一年(1654年)までの約9年間。
年表(8件)
- 順治二年乙酉六月〜十月(魯王監国の擁立と草橋門の戦い)1645年張国維らが魯王を台州で監国に擁立、草橋門で清軍を迎撃した
- 順治二年乙酉(唐王擁立と魯王政権の動揺)1645年唐王の福州自立を受け魯王政権は動揺し浙閩両政権は不和となった
- 順治二年乙酉〜三年丙戌(1646年)三月(王之仁の主戦論と銭塘江渡河戦)1645年王之仁の主戦論で清軍の渡河をいったん撃退した
- 順治三年丙戌四月〜八月(銭塘江防衛の崩壊と浙東諸賢の殉節)1646年方国安の逃亡で防衛線が崩壊し張国維ら多くの重臣が殉節した
- 順治三年丙戌〜四年丁亥(1647年)(魯王の海上逃避)1646年魯王は海路で舟山を目指すも受け入れられず厦門・南澳へと転々とした
- 順治五年戊子〜六年己丑(1649年)(浙閩沿海の一時的回復)1648年劉中藻が福寧州を回復するなど沿海が一時的に回復し魯王は舟山に戻った
- 順治八年辛卯(舟山陥落と多数の殉節)1651年清軍が舟山を攻略し張肯堂ら多数の官吏が殉節した
- 順治十一年甲午(魯王の最期)1654年鄭成功のもとに身を寄せた魯王は疎まれた末に海に沈められた
順治二年乙酉(1645年)六月〜十月(魯王監国の擁立と草橋門の戦い)
- 六月、もと山西僉事鄭之尹の子・鄭遵謙が清の招撫使を江上で殺し、張国維、方逢年らと共に魯王朱以海を台州で監国に擁立した。在籍の大学士朱大典も上表して協賛し、紹興に移駐、国維・逢年・大典は共に大学士となった。方国安は荊国公として厳州を、張鵬翼は永豊伯として衢州を、鄭遵謙は義興伯、王之仁は武寧伯として各地を守った。国維は江上の軍を督し、七月に富陽、八月に於潜を回復した。
- 十月、清軍が固安に至り、国維が王国斌・趙天祥と共に草橋門で迎撃したが、暴風雨で銃矢が使えず退兵、大敗には至らなかった。
順治二年乙酉(1645年)(唐王擁立と魯王政権の動揺)
- 唐王が福州で自立すると、栄達を求める者が唐王に応じ始め、魯王は台州へ戻る令を出した。国維は疏を上げ、内輪もめを戒め「今は皇族・臣下が心を一つに復興を図るべき時であり、成功の後に誰が王となるべきかを論じるのは早計」と説き、魯王はいったん思い止まったが、以後浙・閩両政権は不和となった。
順治二年乙酉(1645年)〜三年丙戌(1646年)三月(王之仁の主戦論と銭塘江渡河戦)
- 草橋門の敗戦以来、諸将は戦意を失っていたが、王之仁は「一敗しただけで銭塘江を国境と諦めるようでは天下の恥」と船を沈める覚悟の決戦を上疏した。丙戌三月一日、清軍が堰を開いて渡河を試みると、国維・之仁は水軍で迎撃し、東南の強風に乗じて奮戦、いったんは杭州を包囲したが落とせず退いた。
順治三年丙戌(1646年)四月〜八月(銭塘江防衛の崩壊と浙東諸賢の殉節)
- 四月、清の貝勒は江が涸れて渡渉できることを見越し大砲で方国安の陣を撃ち、国安は動揺して福建への逃亡を図った。五月二十七日、国安は営を捨て紹興へ逃げ魯王を伴い南へ拉致し、二十八日には江上の各営も総崩れとなった。六月一日、清軍が渡江し、礼部尚書余煌が入水するなど多くの重臣・士人が殉節した。方国安は魯王を清に献じようとしたが監視の隙をついて王は脱出し海に逃れた。
- 六月二十五日、清軍が義烏に入ると、張国維は「天下を誤ったのは(宋末の)文天祥・謝枋得のような優柔不断の徒だ」と言い残し池に投じて死んだ。兵部侍郎陳函輝は自縊、礼部侍郎王思任は断食死、大理寺少卿陳潜夫は妻妾と共に入水、他にも数十名にのぼる官吏・諸生が入水・自縊などで殉節した。清軍が金華に至ると朱大典は激しく抵抗したが大砲で破られ一族もろとも焼身自殺した。張鵬翼が守る衢州も内応により陥落し、鵬翼と楽安王・楚王・晋平王らが殺され、江山県の知県方召も殉節した。他は概ね降伏し、両浙は平定された。八月、清に降った方国安・方逢年は延平城下で誅殺された。
順治三年丙戌(1646年)〜四年丁亥(1647年)(魯王の海上逃避)
- 魯王は南へ逃れ石浦に至った。定西侯張名振が王を護って海路舟山へ向かったが、守将王斌卿が受け入れず、王はさらに厦門へ、鄭芝龍がすでに清に降っていたため南澳へと逃れた。
- 四年丁亥、王は鄭彩・王大振・阮進・張名振らに命じ王斌卿を討伐させた。福建の旧宰相張肯堂は私財で兵を募り、王は舟山へ戻る意向を伝えて協力を約した。
順治五年戊子(1648年)〜六年己丑(1649年)(浙閩沿海の一時的回復)
- 五年戊子、大学士劉中藻が福寧州を回復し、平夷侯周崔芝と連携して建寧・邵武・興化三府および漳浦・海澄など二十七県を奪還し軍勢は振るった。温州・台州も呼応した。
- 六年己丑、王は舟山へ戻り、張肯堂を東閣大学士とした。
順治八年辛卯(1651年)(舟山陥落と多数の殉節)
- 清軍が福寧州を攻め破り劉中藻は敗れ、林汝翥・林垐が陣没した。福建で回復した州県は次々に失われ、福安では中藻が正装のまま自祭文を作り服毒死。興化では朱継祚、湯芬、林嵋、都廷諫が、海澄では洪有文が、永福では鄔正畿・林逢経が、長楽では王恩及夫妻が、建寧では守将王祈が、台州では沈履祥が、それぞれ殉節した。
- 清軍が舟山に迫ると王は再び海に逃れ、張肯堂に籠城を託した。城が陥ると肯堂は妾や子女を先に死なせてから自ら首を吊り、兵部尚書李向中、礼部尚書呉鐘巒、吏部侍郎朱永祐など二十名を超える文武官が殉節した。鐘巒は昌国衛の文廟で孔子の位牌を抱いて焼身し、朝相は王妃らを井戸に沈めて自らも自刎するなど、壮絶な最期が相次いだ。翌年、兵部侍郎沈廷揚も福山で捕らえられ処刑された。
順治十一年甲午(1654年)(魯王の最期)
- 鄭成功が魯王を金門に迎え、当初は丁重に礼遇したが次第に疎かにし、王も不満を募らせ成功もこれを恨んだ。まもなく王が南澳へ行こうとしたとき、成功は人を遣わして王を海に沈めた。