三藩紀事本末李成棟、粤東を平定する(李成棟平粵東)
清将李成棟による広東平定を描く。唐王の弟聿𨮁が奉じられた紹武政権はわずかな期間で広州陥落とともに滅び、李成棟はさらに西進して永明王(永暦帝)を追い、両広を平定した。桂林攻防や陳邦彦・張家玉ら粤東義兵の蜂起も相次いで鎮圧された。順治三年丙戌(1646年)11月から順治四年丁亥(1647年)にかけての出来事。
年表(3件)
- 順治三年丙戌十一月〜十二月(紹武政権の成立と広州の陥落)1646年唐王弟聿𨮁を奉じた紹武政権が広州陥落とともに滅んだ
- 順治三年丙戌十二月〜四年丁亥(1647年)四月(永明王の逃避と両広の平定)1646年李成棟が永明王を追撃しつつ両広の諸府を平定した
- 順治四年丁亥(桂林攻防と粤東の義兵蜂起)1647年桂林の包囲が解けた後、陳邦彦ら粤東の義兵蜂起も相次いで鎮圧された
順治三年丙戌(1646年)十一月〜十二月(紹武政権の成立と広州の陥落)
- 福建平定後の十二月、清の巡撫佟養甲と総兵李成棟は閩から恵州・潮州を経て密かに広州を襲おうとした。十一月、唐王の弟聿𨮁が海路で広州に至り、蘇観生、何吾騶、顧元鏡、王応華、曾道唯らに擁されて監国となり紹武と改元し、海賊上がりの四姓の頭目を総兵とした。
- 一方、永明王(後の永暦帝)はすでに肇慶で即位しており、両者の使者が交渉に赴くも観生は使者を殺し西へ出兵した。職方主事陳邦彦は永明王に和議を説いたが実現せず、巡撫林佳鼎は広州軍に敗れ、さらに広州の陳際泰・林察と海戦で偽降策にかかり全軍が沈められ佳鼎も入水した。これで肇慶は震撼し、広州の守りは手薄になった。
- そこに李成棟が恵州・潮州の官印を偽って安心させた上で急襲した。十五日、観生は変事を海賊の来襲と誤認し使者を斬ってしまい、対応が遅れて城は陥落。聿𨮁は自縊、周・益・遼など二十四王も難に遭った。祭酒梁朝鐘は自刎、太僕卿霍子衡は一族と共に入水するなど多数が殉節した。観生自身も側近の裏切りに絶望して自縊し、吾騶・応華・元鏡らは清に降った。
順治三年丙戌(1646年)十二月〜四年丁亥(1647年)四月(永明王の逃避と両広の平定)
- 成棟は別働隊を南雄・韶州に向かわせつつ自らは肇慶へ迫った。永明王は西へ逃れ、丁亥正月には梧州、さらに桂林方面へと逃走を重ねた。成棟は梧州・平楽・高雷廉三府・南韶・瓊州と各地を攻略し、丁魁楚を藤江で殺すなど抵抗勢力を一掃した。四月には瓊州も平定した。
順治四年丁亥(1647年)(桂林攻防と粤東の義兵蜂起)
- 相次ぐ敗報に永明王は動揺し、武岡鎮の劉承胤の兵を頼って全州へ逃れ、瞿式耜に桂林を守らせた。清軍が桂林に迫ると式耜と焦璉は堅守し、承胤の援軍三千も食糧不足で潰走した。桂林陥落寸前、給事中陳邦彦の説得で盗賊の頭目余龍が広州を急襲したため、巡撫佟養甲は成棟を桂林から呼び戻し、これにより桂林の包囲は解けた。
- こうして陳邦彦(高明)、陳子壮(九江村)、霍師連(花山)、張家玉(東莞)がそれぞれ挙兵し粤東は大いに乱れた(詳細は別篇「雑乱」)。まもなく家玉は龍門で滅ぼされ、邦彦・師連は清遠で殺され、子壮も高明で敗れて、粤東は再び平定された。