三藩紀事本末金聲桓・王得仁、江西を収める(金、王收江西)

清将金声桓・王体忠による江西攻略を描く。左夢庚の降伏を機に金声桓が江西攻略を志願して南昌を占領し、益王を擁した抵抗勢力を次々に破って、広信の陥落をもって江西はほぼ平定された(贛州のみ残る)。順治二年乙酉(1645年)4月から順治三年丙戌(1646年)4月までの約1年間。

年表(6件)

順治二年乙酉(1645年)四月(左夢庚の降伏と金声桓の江西攻略請願)

  • 四月、英王が李自成の残党を追って九江に至ると、寧南侯左良玉の子・左夢庚が麾下三十六営を率いて降った。王が北へ帰る際に降将たちも連行されたが、後営総兵の金声桓だけは江西攻略を志願し、許された。清は闖部の降将王体忠に潯陽に駐屯させ進取の態勢を整えさせた。

順治二年乙酉(1645年)六月〜七月(南昌陥落と建昌の戦い)

  • 六月、金声桓が招撫の牌文を送ると江西巡撫の曠昭は逃げ、士民は降った。十九日、声桓は南昌に入り南康・九江も戦わずに下った。しかし旧撫標将の白之裔・鄧武泰は袁州・吉安に拠り、湖東分巡道の王養正らは益王を擁して建昌で挙兵し抵抗を続けた。
  • 七月、王体忠が撫州・建昌へ進軍した。益藩に近侍する「保寧王」なる者が密かに体忠に通じており、戦闘中に象兵を火矢で乱し敗走させた。城は三日で陥落し益王は殺され(別篇「益藩擾湖東」に詳しい)、王養正ら五人も捕らえられ殺された。その妻子も多く殉節し、新昌・南昌周辺の県も次々に降った。清軍はさらに袁州・吉安・万安まで攻め落とし、各地の守将・官吏が殉節した。

順治二年乙酉(1645年)八月〜(王体忠謀殺と永寧王の敗死)

  • 八月二十五日、金声桓は王体忠を偽って謀殺し、その部将王得仁に代えた。折しも益王の一族・永寧王慈炎が再挙して撫州・建昌を回復し進賢県に屯していたが、糧が続かず撫州へ退いた。声桓は得仁に追討させ、吏部主事曾亨応やその一族も捕らえられ殺された。永寧王も建昌へ退く途上で得仁に捕らえられ死んだ。

順治三年丙戌(1646年)三月(寧州の陥落と許文龍の死)

  • 三月、寧州が陥り監軍許文龍が死んだ。文龍は寧州で挙兵し声桓の招撫を拒んで清の官吏を追い出し奉郷に屯していたが、声桓の攻撃で寧州を失い、奉郷も二月の籠城の末に陥落、界首砦に退いたが糧が尽きて捕らえられ死んだ。

順治三年丙戌(1646年)三月(吉安の再陥落と郭錕の死)

  • 同月、吉安が再び陥り職方主事郭錕が死んだ。乙酉九月、劉同升が贛州で忠誠社を結び李永茂と共に吉安回復を図っていたが、丙戌春の清軍侵攻で副将劉必達は入水して敗死し、広東からの援軍も及ばぬまま吉安は攻略された。

順治三年丙戌(1646年)四月(広信の陥落と多数の殉節)

  • 四月、広信が陥り、巡撫周定礽、副使胡奇偉、兵部侍郎詹兆恒、御史胡夢泰、兵部員外万文英、同知胡甲桂、挙人畢貞士らが殉節した。清軍との攻防で敗れ、定礽は自縊、文英は入水(妾も殉じた)、奇偉は捕らえられ処刑、甲桂は自室で自経、貞士は入水を家人に救われた後に祖先の墓前で自ら橋柱に触れて死に、夢泰夫婦は共に縊死、兆恒は懐玉山に逃れて再挙したが陣没した。これにより江西はほぼ平定され、贛州のみが残った。