三藩紀事本末太子・童妃の両案(兩案)
弘光政権を揺るがした二つの疑獄、太子偽冒事件と童妃事件を描く。太子(王之明)と福王の元妃童氏はいずれも馬士英らによって偽物とされ拷問・処刑されたが、真偽をめぐる疑念は左良玉の挙兵の口実となり、南京陥落の遠因ともなった。順治二年乙酉(1645年)の出来事。
年表(1件)
- 太子偽冒事件(順治二年乙酉・1645年)浙江から現れた太子を偽物と断じ王之明を拷問死させた
太子偽冒事件(順治二年乙酉・1645年)
- 二月、鴻臚寺少卿高夢箕が、崇禎帝の太子が浙江にいると密奏した。甲申の政変の際、太監栗宗周・王之俊が太子と二王を李自成に献上し劉宗敏のもとに幽閉されていたが、南下してきたという。左良玉は呉三桂の証言をもとにこれを事実と疑わなかった。
- 三月、太監李継周が浙江から太子を招き寺に寓させ、宮中で確認させたが認められず、錦衣衛都督馮可宗の邸に移された。文武百官に識別させたところ、大学士王鐸が講官方拱乾に「これは誰か」と問うたのに対し正しく答えたが、講官劉正宗は識別できず、また先帝が呉昌時を親鞫した際の東宮の立ち位置も答えられなかった。給事中戴英が偽物と断じ、拷問の末、高陽の王之明(駙馬都尉王昺の姪孫)が高夢箕の家人穆虎に唆され東宮を詐称したと自白した。
- 給事中陳以瑞は民心動揺を懸念し刑を控えるよう求めた。馬士英は東宮を名乗る者が虎口を脱しながら官に自首せず紹興に走ったこと、機弁に長けていること、公主(現に周奎家で養育中)が死亡と称されていることなどを疑わしい点として挙げ、法司による徹底究明を求めた。三か月後、午門外で審理し高夢箕・穆虎は罪を認め、刑獄に下された。
各方の弁護と政争
- 馬士英は姜曰広・黄道周らも連座させようとし、法司に主謀者の追及を命じた。寧南侯左良玉は、呉三桂の証言があるにもかかわらず朝廷が体面を重んじ真偽を追及しないことを批判し、李自成の乱の際すら王封を与えたのに、今は仇敵のごとく扱うのはおかしいと諫めた。
- 靖南侯黄得功も「先帝の子は陛下の子でもあり、不明のまま獄に下すのは人臣の道に反する」と主張した。広昌伯劉良佐は両案(王之明・童妃)が世論と合わないと懸念を示し、湖広巡撫何騰蛟は、太子が誰に見出され誰に召されたか、馬士英だけがなぜ偽物と断定できるのかなど多くの疑問を呈した。江督袁継咸も、太子の風貌が別人であるはずがなく、真偽の判断は慎重を期すべきと訴えた。
- 諸疏が上がるも、王は「王之明の自供は明白」として審理の要点を示すのみで動かなかった。
太子事件の帰結
- 四月、左良玉は太子の密旨を奉じたと称して兵を挙げ九江まで進軍した。江督袁継咸は太子赦免による事態収拾を求めたが、王は聞き入れなかった。
- 五月十一日、清軍が南京に迫り王は逃走した。南京の士民は獄から太子を出し監国に奉じたが、十四日、趙之龍とともに降伏し北へ連行された。
童妃事件
- 順治二年乙酉三月十三日、福王の元妃童氏が越其傑のもとから届けられ、錦衣衛の監禁下に置かれた。童氏はもと周王府の宮人で、洛陽陥落の際に尉氏県に逃れ旅先で王と出会い、一子を儲けていた。王が南下した際、妃と太妃は離散し、太妃だけが河南から迎えられていた。陳潜夫は童妃の存在を王に伝えたが召そうとせず、越其傑から届けられると王はますます不快とした。
- 劉良佐は童氏を偽物とは思えないと述べ、馬士英も「深い縁故がなければ誰が陛下と対立してまで庇うか」と擁護したが、王は応じなかった。馮可宗に取り調べさせたところ、童氏は入宮の年月や離別の経緯を細かく記した書を提出し閲覧を求めたが、王は無視し、可宗も審理を辞退した。代わって屈尚忠が厳刑で拷問し、童氏は泣き叫びながら獄中で死んだ。