三藩紀事本末江北の四鎮(四鎮)
弘光政権を軍事的に支えた四人の総兵、黄得功・高傑・劉澤清・劉良佐(四鎮)と、これを統率した史可法の顛末を描く。高傑は許定国に謀殺され、清軍の南下に対し馬士英・劉澤清らは対応を怠り、揚州は陥落して史可法は死節、黄得功も追撃を受けて自刎した。崇禎甲申(1644年)から弘光乙酉(1645年)にかけての約2年間。
崇禎~弘光初、四鎮の成立
- 崇禎甲申(1644年)、黄得功を靖南伯に封じる。福王即位後は侯に進め儀真に駐屯させた。劉澤清を東平伯として廬州に、高傑を興平伯として瓜州に、劉良佐を広昌伯として臨淮にそれぞれ配置。大学士史可法は揚州に開府しこれらを統率した。
- 黄得功は榆林衛の出身で忠勇の将、双刀を振るい「黄闖子」と呼ばれた。高傑はもと李自成配下で、自成の妻邢氏を奪って明に帰順、軍功で総兵に昇った。北京陥落後南下し、揚州入城を望んだが、揚州の民は高傑の粗暴を恐れ拒絶、高傑は攻城し婦女を掠奪した。史可法の調停で瓜州を与えられ収まる。九月に徐州・泗州に移り、家族は揚州に留めた。
- 黄得功はもと廬州守備だったが、史可法は高傑を牽制するため得功を儀真へ移した。東萊総兵黄蜚が赴任の途上、義兄弟の得功が三百騎で高郵に出迎えたところ、得功を疑う高傑が伏兵を仕掛け、土橋で襲撃した。得功は奮戦して脱出したが従者三百は全滅、儀真の兵も過半が殺傷された。得功は激怒し朝廷に訴え決戦を望んだが、史可法の仲裁と、折しも得功の母の喪に高傑が弔慰金を送ったことで和解した。
高傑と史可法の連携、清軍の南下
- 和解後、高傑は史可法に協力し、得功・澤清を邳州・宿州へ、自らは開封・南陽・洛陽・荊襄方面へ進軍する構想を上疏した。長江防衛だけでなく黄河・鳳泗・上流・海道の防備の必要も説き、総兵李朝雲を泗州に、諸将を徐州防衛に配した。
- 八月、史可法は淮安・儀真を巡視し軍を閲し、進攻のための軍餉を求めた。十月、李自成敗走の報を受け高傑が進軍。史可法は清江浦に赴き屯田を開き中原経略の基とした。
- 十月、清軍は史可法に書を送り、「春秋の義」を説いて南京の僭立を非難し、藩に戻るよう勧告した。史可法は正統性を論じ、契丹・回紇の故事を挙げつつ全軍での討逆を求める返書を送った。
- 十一月、清軍が宿遷に入り劉肇基・李棲鳳がこれを奪回。清軍は邳州を包囲するも肇基が奪還し半月で対峙が解けた。
高傑の死とその余波
- 高傑は徐州に至り清軍に降伏勧告の書を送るが応じず、防備を固める一方、河南総兵許定国と結ぼうとした。清の豫王が孟県から渡河との報に澤清・史可法らが危機感を強めるが、馬士英は「四鎮あれば憂いなし」と楽観視し対応しなかった。清軍は夏鎮・済寧・洛陽方面から南下、各将の急報も無視された。
- 乙酉正月(1645年)、高傑は帰徳で許定国と結ぼうとするが警戒され、定国の陣で酒宴の最中に殺害された。定国はその後清に降伏。高傑の部下李本身(甥)が兵を継いだが、のちに清に降った。得功は高傑の死を知り妻子を殺そうと揚州を襲うが、史可法の使者に説得され撤退した。
- 高傑は淫虐の将として揚州民に憎まれ、その死は歓迎されたが、進取の志は惜しまれた。史可法は徐州へ赴きその功に対する恩賞を求め、朝廷は太子太保を追贈、子の元爵に世襲を許した。
揚州陥落と史可法の死
- 三月、清軍は儀封に入り帰徳・睢州を破って江北に迫った。四月、左良玉が「清君側」を名目に九江から東進、得功・良佐がこれに対処するため動員され、澤清も勤王を名目に略奪しつつ東進した。史可法の再三の急報にも王・馬士英は左良玉の脅威を優先し淮揚防備を怠った。
- 諸臣の諫言にも馬士英は「良玉の死党の遊説」と退け、異論を唱える者は斬ると威嚇した。清軍が淮河を渡り南京に迫る中、総兵李棲鳳・監軍高岐鳳が史可法に降伏を勧めるが叱責され離反、逆に清に投降した。
- 清軍が揚州城下に迫り、劉肇基らが背水の一戦を進言するも史可法は認めなかった。史可法の急報は届かず、劉澤清は清に通款し磔刑に処された。二十五日、清軍の砲撃で城壁が崩れ揚州陥落。史可法は自刎を図るも死ねず捕えられ、降伏を拒み処刑された。劉肇基以下多くの将兵が巷戦で戦死し、兵部主事何剛は投井自殺、原兵部尚書張伯鯨は闘死し妻子も殉じた。市井の忠義の士(陳於偕・許徳溥ら)も各地で殉節した。
- 得功は銅陵で左軍を破り蕪湖に屯していたが、五月、清軍は長江を渡り南京に迫った。二鄭(鄭鴻逵・鄭彩)や楊文驄は江防を放棄して逃走、清軍は龍潭・竹哨から密かに渡江。馬士英は十日になっても「長江天塹」を頼みにしていたが、十一日に清軍が都城に迫ると太后・妃を奉じて真っ先に逃走、南京は無血開城した。王も蕪湖へ逃げ、勲臣・文臣数百と兵二十三万が清に降伏した。吏部尚書張捷・刑部尚書高倬らは殉節し、楊維垣・黄端伯・劉成治や無名の忠義の士も殉じた。
- 王が得功の陣に至ると、得功は「都城を死守すれば各鎮は再起できたのに、なぜ奸臣の言を聞き先に逃げたのか」と嘆いた。清軍は蕪湖まで王を追い、荻港で得功と交戦。既に清に降っていた劉良佐が陣頭で降伏を呼びかけ、降将張天禄が矢で得功の喉を射抜くと、得功は自ら喉に刺さった矢を引き抜いて命を絶った。妻もあとを追って自害した。総兵翁之琪は投江自殺、中軍田雄が王を捕えて清に降った。