三藩紀事本末三藩、皇帝を僭称する(三藩僭號)
明滅亡後に相次いで立った三つの亡命政権、福王(弘光)・唐王(隆武)・永明王(永暦)の興亡をたどる。福王は南京陥落で捕らえられ、唐王は汀州で清軍に討たれ、永明王は雲南から緬甸へ逃れた末に捕らえられ清に引き渡された。1644年から1661年までの約17年間。
年表(3件)
- 福王
- 擁立の経緯(甲申・1644年)馬士英らが福王朱由崧を南京に迎え監国のち皇帝と称した
- 順治元年甲申(1644年)史可法らを内閣に任じ藩鎮を配置する一方、阮大鋮ら逆案の復権が進んだ
- 順治二年乙酉(1645年)清軍が長江を渡り福王は蕪湖で捕らえられ弘光政権が崩壊した
福王擁立の経緯(甲申・1644年)
- 福王朱由崧は神宗の孫、福王常洵の子。洛陽陥落後に南へ逃れ淮安に至る。崇禎帝が死んだ甲申三月の政変を受け、南京の官僚たちが監国(摂政)擁立を協議した。鳳陽総督馬士英は史可法・呂大器に書を送り福王擁立を求めたが、両者は潞王の方が人望があるとして態度を決めかねた。士英は密かに劉孔昭・劉澤清・高傑・黄得功・劉良佐ら諸将と結び、福王を長江上に迎えた。
- 王は南京に入り内守備府を行宮とし、四日に監国、十五日に即位を僭称、翌年を弘光元年とした。
順治元年甲申(1644年)
- 五月、史可法・高弘図・馬士英を内閣に、姜曰広・王鐸を大学士に、張慎言を吏部尚書に任命。黄得功・高傑・劉澤清・劉良佐に淮上を分鎮させ、史可法は揚州に開府してこれを督した。
- 六月、金製の国璽を新鋳。
- 都察院左都御史に劉宗周を起用。宗周は上疏し、地形を頼みに親征軍を出すべきこと、藩鎮の統制(路振飛・劉澤清・高傑らが家眷を後方に移す弊)、爵賞の濫発を戒めること、偽官を受けた者の処分を区別すべきことを説いた。また北伐の遅れと督撫の座視、先帝崩御の哀詔がひと月経っても浙江に届かぬ怠慢を批判し、綱紀粛正と問罪の軍を興すよう求めたが、間もなく致仕した。
- 太監王肇基(旧名坤)を派遣し閩浙の金花銀を督促。
- 崇禎帝に思宗烈皇帝(のち毅宗と改諡)、周皇后に孝節皇后の諡を追贈。建文帝を恵宗譲皇帝、景泰帝を代宗景皇帝、懿文太子を興宗孝康皇帝に追尊。実父の福恭王を恭皇帝(のち孝皇帝)とし専祠を立てた。
- 礼部尚書顧錫疇の求めで温体仁の文忠の諡を削る。錫疇は間もなくこの一件で罷免された。
- 高牆に幽閉されていた罪宗75件を赦免。
- 文震孟・劉一璟・賀逢聖・羅喩義・姚希孟・呂維祺・蔡懋徳・王燾ら殉節・功臣に諡を贈る(懋徳の諡はのち取り消し)。
- 吏科馬嘉植が国本(改葬・国母迎養・東宮二王の捜索・燕山陵祭告)を上疏。
- 王之綱に太妃を河南から迎えさせ、工部に賞賜資金を用意させる。
- 御史祁彪佳・給事中呉適が詔獄・緝事・廷杖の弊政廃止と東廠復活反対を上疏するが、聞き入れられなかった。
- 八月、逆案(魏忠賢一味)出身の阮大鋮を兵部右侍郎、のち左侍郎に登用。楊維垣ら逆案関係者が相次いで復官した。
- 錦衣都督馮可宗に密偵を放たせる。礼科給事中袁彭年が東廠の沿革と弊害を上疏し左遷された。
- 宮女・宦官の選抜を強行、廷臣の諫言を聞かなかった。
- 九月、北京で殉難した范景文・倪元璐・李邦華ら多数の文武官に諡を贈り、専祠「旌忠」を設ける。
- 十月、弘光銭を鋳造。楊維垣を通政使に(銭謙益の推薦)。翌年二月に左副都御史へ昇進。
- 興寧宮・慈禧殿を修築。廟門の火災や鳳陽祖陵の地震が相次ぐ中、王は酒色に溺れ浪費し、識者は先行きを危惧した。
- 十一月、孔貞運・呉阿衡・胡守恆らに諡を贈る。
順治二年乙酉(1645年)
- 正月元旦、日食。
- 楊維垣が三案(梃撃・紅丸・移宮)を蒸し返し、劉廷元・霍維華らの復権と欽案の書き換えを求め、多数が贈蔭・復官した。焚書となった要典の再刊も進める。左良玉・袁継咸は不要と反対したが聞かれなかった。
- 二月、宗室の入京を禁止。阮大鋮が兵部尚書兼右副都御史に進み江防を統括。顧起元・劉源清に諡。
- 四月、逆賊に投降した光時亨・周鐘・武愫を処刑する一方、賄賂で復官する大官が続出した。
- 五月、清軍が長江を渡り、王は蕪湖に逃走。十五日に清軍が蕪湖で王を捕え、丙戌五月に処刑された。
唐王の擁立と隆武政権
- 唐王朱聿鍵は端王碩熿の孫、父器墭は早世。崇禎五年(1632年)に嗣立したが、勤王のため無断で南陽を離れたため高牆に幽閉、のち赦免された。
- 南京陥落後、鄭彩・鄭鴻逵が福建に帰還する途上で王を迎え、福建巡撫張肯堂らと監国擁立を協議。鄭鴻逵は即位を求めたが諸臣は監国のままにと主張、結局擁立派の意向で即位が急がれ、順治二年乙酉閏六月十五日、福州で即位を僭称した。福州を天興府と改め、隆武と改元。
- 張肯堂・李長倩・曹学佺・呉春枝・周応期・鄭瑄をそれぞれ吏戸礼兵刑工の尚書に任命し、八閩に巡撫を設置。
- 蒋徳璟・黄景昉・黄道周ら多数を大学士に起用(入閣者三十余名にのぼるが、実権は王自らが握った)。
- 鄭芝龍を平鹵侯、鄭鴻逵を定西侯、鄭芝豹を澄済伯、鄭彩を永勝伯に封じ、戦守の実権は芝龍が握った。仙霞関以外の守備計画を立てるも、軍餉不足を大戸への課税・売官で賄い、出兵は遅々として進まなかった。
- 十月、曾妃入宮。聡明で群臣の奏事を屏風越しに聴き決を下すため、王も一目置いた。
- 順治三年丙戌正月(1646年)、鄭鴻逵・鄭彩を出兵させるも、餉尽きたとしてすぐ撤退。
- 黄道周が自ら江西へ出兵するが、鄭氏の非協力に憤り、婺源で清軍に捕われ死んだ。
- 蒋徳璟は出兵の必要を訴えるも聞かれず、病を理由に辞去。
- 二月、王自ら親征し建寧に駐屯。楚撫何騰蛟・楊廷麟の招きに応じようとするが芝龍に阻まれ剣津にとどまる。
- 王子誕生、大赦。
- 六月、鄭芝龍は安平に帰還。八月、王は江西への進軍を決意し順昌まで進むが、清軍に捕えられ曾妃とともに汀州で処刑された。
永明王(永暦帝)政権
- 永明王朱由榔は桂王常瀛の末子、神宗の孫。もと衡陽王。張献忠の衡州侵攻を避け梧州に逃れた桂王は乙酉(1645年)に薨去。丙戌(1646年)に唐王が死ぬと、両広総督丁魁楚・広西巡撫瞿式耜らが協議し、十月十四日に監国、十一月に永暦と改元、肇慶府署を行宮とした。
- 丁魁楚・呂大器を大学士とするが大器はまもなく入蜀。唐王に思文の諡を追贈。
- 太監王肇基が司礼太監として朝政を専断、周鼎瀚・王化澄ら側近を内批で登用し、廷臣の抗議を無視した。
- 李永茂は劉湘客推挙で肇基に疎まれ罷免。朱治澗を両広総督とし肇慶を守らせる。
- 順治四年丁亥(1647年)、瞿式耜・厳起恒を東閣大学士に。錦衣指揮馬吉翔が票擬を担当。三月、式耜は文淵閣大学士兼吏兵両部尚書として桂林を守る。
- 五年戊子(1648年)、王子誕生・大赦。何吾騶・黄士俊を東閣大学士に起用。
- 六年己丑(1649年)冬、黔鎮皮熊を匡国公、播鎮王祥を忠国公に封じ雲南の防備を固める。
- 七年庚寅(1650年)、王は梧州に逃れ肇慶を馬吉翔・李元胤に守らせる。袁彭年・劉湘客・丁時魁・金堡・蒙正発を詔獄に下すが、袁彭年は免罪。朝士は反正派(李成棟系)と旧臣派(広西扈行組)に分裂し、さらに呉党・楚党に分かれて日々互いを弾劾する内紛が続いた。王は太廟で盟わせるも党争は解けなかった。
- 八年辛卯(1651年)、孫可望が賀九儀に厳起恒を殺させ、楊鼎和・劉堯珍らも殺害、楊畏知を捕えて処刑した。呉貞毓を東閣大学士に。
- 九年壬辰(1652年)、孫可望が王を安陸所(のち安隆/安龍と改称)に遷す。
- 十年癸巳(1653年)、林青陽を李定国のもとへ使わし迎えを約す。
- 十一年甲午(1654年)、孫可望が呉貞毓ら十八人を安隆で殺害、王后廃立の議も王后の哀訴で中止となった。
- 十三年丙申(1656年)、孫可望が内閣六部を私設。文安之を東閣大学士とするが川東に逃れる。李定国が王を雲南へ護送。
- 十六年己亥(1659年)、王は緬甸へ入る。十月、庚子暦の作成を許可。
- 十八年辛丑(1661年)、緬甸側が王を捕え清軍に引き渡した。