三國志卷六十五 吳書二十 華覈
華覈、字は永先、呉郡武進の人。文学の才により秘府郎に入り、中書丞・東観令を歴任した。蜀滅亡に際して哀悼の上表を奉り、孫皓の新宮殿造営や奢侈の風潮を諫める上疏をたびたび奉り、韋曜の助命も上疏で訴えた。忠臣として知られたが、些細な譴責で免官となり、数年後に没した。
出自と蜀滅亡時の上表
- 華覈、字は永先、呉郡武進の人。初め上虞尉・曲農都尉となり、文学の才によって秘府郎に入り、中書丞に遷った。蜀が魏に併呑された際、華覈は宮門に詣で上表した(賊の大軍が西の国境に蟻のように群がっていると聞いた時は西境が険阻なので心配ないと思っていたが、陸抗の上表が届き、成都が守られず蜀の君臣が流浪し社稷が傾覆したと知った、昔、衛が狄に滅ぼされた際に斉の桓公がこれを復興させた故事があるが、今は道のりが遠く救援できず、頼るべき土地と朝貢する国を失ったことを、草莽の身ながら密かに憂いていると述べ、陛下の聖仁が遠くまで恩沢を及ぼされている以上、この報せを聞けば必ず哀悼されるだろうと結んだ)。
孫皓の新宮造営への諫言
- 孫皓が即位すると、除陵亭侯に封じられた。宝鼎二年(267年)、孫皓は新しい宮殿を新たに造営しようとし、規模は広大で珠玉で飾り、費用は莫大であった。この時は盛夏に工事を興し、農作業と防衛が共に廃れたため、華覈は上疏して諫めた。
- (上疏の要旨)漢の文帝の時代、九州は安泰であり、秦の民は苛政を脱して劉氏の寛仁に帰し、賦役を省き法を簡素にして治世を刷新し、子弟を諸侯に封じて漢室の藩屏としたので、その時代は泰山のように安泰で無窮の基だと誰もが考えていた。しかし賈誼だけは、痛哭すべきこと三つ、長歎息すべきこと六つがあると論じ、当今の情勢は火を抱いて薪の上に積み、その上に寝ているようなもので、火がまだ燃えていないからといって安全だと思っているに過ぎないと説いた。その後の変乱は皆その言葉のとおりになった。
- 賈誼が痛哭したのはまだ数年先の話であったが、今、大敵(魏晋)は九州の大半を有し、我々と天下を争おうとする様は楚漢の勢いに似ており、賈誼が憂えた漢の諸王の反乱どころではない。賈誼の比喩は今ではさらに切迫している。大皇帝(孫権)は前代の情勢を鑑み、農桑の業を広め莫大な蓄えを積み、民の労役を憐れみ戦士を養うことに務められたので、大小の者が皆恩を感じ命を尽くそうとした。しかし国運がまだ至らぬうちに崩御され、その後、権臣が政を専らにし、天時を欺き衆議に逆らい、安寧の本を忘れ一時の利を求め、たびたび軍を興して府庫を空にし、兵は疲れ民は困窮し、安寧の時がなかった。今、生き残っている者は傷ついた民の余り、悲苦の余りに過ぎない。
- 軍需は窮乏し倉廩は満たされず、布帛の支給は寒暑の折々にも行き届かず、加えて生業を失い家々は困窮している。一方、北の敵(魏晋)は穀物を蓄え民を養い、専ら東方(呉)に向けて注意を払い、他に憂いを持たない。蜀は西の藩屏として地勢険固であり、先主(劉備)の統御の術を承けているので、その守りは長く保たれると考えられていたが、思いがけず一朝にして滅んでしまった。唇亡びて歯寒しとは、古人の恐れたことである。
- 交州の諸郡は国の南の要地であるが、交阯・九真の二郡は既に没し、日南は孤立して存亡もおぼつかない。合浦以北の民も動揺し、労役を避けて叛く者が相次ぎ、守備は減少し威勢は軽んじられ、いつ変事が起きるかと常に恐れている。かつて海賊が東方の県を窺い、多くの民を離反させたことがあったように、今は前後に憂いを抱え、まさに国朝の危機である。
- 誠に今建立中の工事は取り止め、予防の計を先にし、開墾の業に努め、飢乏に備えるべきである。恐れるのは、農繁期が過ぎようとしているのに、有事の際の備えが整わないことである。もしこの急務を捨てて造営に力を尽くせば、思いがけず兵乱が起きた時に、板築(土木工事)の役に人手が割かれ、烽火の急に応じられなくなり、怨み苦しむ民を戦地に駆り立てることになる。これはまさに大敵にとって好都合な状況である。ただ守りを固めて日を重ねれば、軍糧は必ず尽き、刃を交える前に戦士は既に困窮するだろう。
- かつて殷の太戊の時、桑と穀の木が庭に生じたが、これを恐れて徳を修めたので、その怪異は消え殷は興隆した。熒惑(火星)が心宿にとどまった時、宋の景公は瞽史(占い師)の言葉に従わなかったので、熒惑は退き景公は長寿を得た。徳を身に修めれば異類にも感応するといい、言葉が口から発せられれば神明にも通じるという。私は愚かながら近侍の職を汚し、仁沢を広めて神霊に感応させることができず、慚愧に堪えない。振り返って思うに、熒惑や桑穀の怪異は天が二人の君主(太戊・景公)に示した大きな警告であり、それ以外の些細な怪異は近くは門庭の小さな神霊の仕業に過ぎず、天地に照らせば他に大きな変事はなく、瑞祥は前後にしきりに現れ、明珠が現れ白雀が続いて出現しており、万億の福運は実に霊験によって授けられたものである。
- 天下を家宅とする以上、庶民の移住とは事情が異なる。今の宮室は先帝の造営されたものであり、卜占で選んだ地であるから不吉ではない。また楊市の土地は宮殿と隣接しているが、もし造営が完成し輿駕(皇帝)が移り住めば、門戸を司る神も移ることになるが、長く続いた旧来の霊験には及ばないかもしれない。度重なる遷移は少なくなく、留まればまた別の嫌いがある、これが私が日夜憂慮するところである。
- 私が『月令』を見るに、季夏の月には土木の工事を興してはならず、諸侯を集めてはならず、兵を興し民を動かしてはならないとあり、大事を行えば必ず大殃があるという。今は諸侯を集めてはいないが、諸侯の軍を集めるのと変わらない。六月戊己は土行が正に王たる時であり、これを犯してはならず、加えて農繁期でもあり、時を失ってはならない。かつて魯の隠公が夏に中丘に城を築いたことは『春秋』に記され、後世への戒めとされた。今、宮殿を築くことは万世の基のためであるとはいえ、天地の大禁を犯し、『春秋』に記された過ちを繰り返し、農事を優先すべき務めを廃することは、私の愚見では未だ安心できないことである。
- また、召集した離散民が来ないこともあり得るが、これを討伐すれば工事が滞り、討伐しなければ日ごとに規律が緩む。もし皆が集まれば大衆が集まり、疫病が起きないとも限らない。しかも人心は安ければ善を思い、苦しければ怨み叛くものである。江南の精兵は北の敵にとって最も恐れるところであり、彼らは一人の兵に十人を割り当てようとしている。天下がまだ定まらないうちにこれを失うのは、まことに惜しむべきことである。もしこの宮殿が完成して五千人が死んだり叛いたりすれば、北軍の兵力はさらに五万増したのと同じであり、この上さらに一万人加われば十万人分に相当する。病者には死亡の損失があり、叛者には悪評を広める害がある、これはまさに大敵の喜ぶところである。今まさに中原で力を競い合い強弱を定めようとする瀬戸際にあり、敵は益を得て我は損を被り、これに疲労困窮が加われば、これは英雄・智士が深く憂うるところである。
- 私が聞くところでは、先王は三年の蓄えのない国を「国にあらず」としたという。安寧の世でさえこのように戒めているのに、まして敵が強大であるのに農事と蓄えを忘れてよいだろうか。今、いくらか作付けはしているものの、この間の大水で水没し、残った作物も除草・収穫にまだ人手が必要である。しかし地方長官は期限に怯え、上は諸郡が自ら山林に入り力を尽くして材木を伐り、農事を廃して務めを捨てている。士民の妻子は病弱で、開墾も薄く、もし水旱があれば永く収穫を得られないだろう。州郡の現有の米は有事に備えるべきものであり、無為徒食の民は官の供給に頼っている。もし上下が空乏し、輸送が追いつかず、北の敵が国境を犯せば、たとえ周公・召公や張良・陳平が再び現れたとしても、陛下のために策を立てることはできないだろう。
- 私が聞くところでは、君主が明であれば臣は忠であり、主が聖であれば臣は直言するという。それゆえ切に天の威を犯すことを冒して申し上げる次第であり、どうか哀れんでご一読いただきたい。
その後
- 上疏したが、孫皓はこれを聞き入れなかった。後に東観令に遷り右国史を領したが、華覈は上疏して辞退した。孫皓は答えて(東観は儒林の府であり文芸を講じ疑問を定めるべき所で、漢代には皆碩学の大儒がその職を任じたので他の賢人を選び直してほしいとのことだが、あなたが典籍に精通し博覧強記であることを聞いている、礼楽を悦び詩書に篤い者と言うべきであり、筆を振るい文才を発揮して時事を助け、揚雄・班固・張衡・蔡邕の類を超えるべきであるのに、なぜそのように謙遜し自らを卑下するのか、努めてその職に励み先賢を超えるように、繰り返し辞退しないように)と答えた。
倹約を説く上疏
- 当時、倉廩に蓄えがなく、世の風潮は華美に流れていたので、華覈は上疏した(敵が国境に充満し征伐がやまない現状で、蓄えもなく敵に備える資もないことは国を保つ者が深く憂うべきことであると述べ、財と穀物はすべて民から生まれるものであり、農事に励むことこそ国の第一の急務であるのに、都下の諸官はそれぞれ民力を顧みずに近い期限で調達を求め、地方長官は罪を恐れて昼夜民を催促し、農事を放棄させて期限までに都へ送らせるが、時には積んだまま使われず民の力と時を無駄にしていること、秋の収穫期には限度を課してその年の税を取り立て、滞納があれば財物を没収するので、家々は貧困に陥っていることを指摘し、しばらく諸々の労役を止め、専ら農桑に専心すべきと説いた。「一人の男が耕さなければ飢える者があり、一人の女が織らなければ寒がる者がある」という古人の言葉を引き、軍興以来ほぼ百年、農事も機織りも廃れ、粗食で飢え薄着で凍える者が少なくないと述べる。君主が民に求めるものは二つ(自分のために働くこと、自分のために死ぬこと)、民が君主に望むものは三つ(飢える者を食べさせること、疲れた者を休ませること、功ある者に賞を与えること)であるが、今、君主の二つの要求は満たされているのに、民の三つの望みは応えられていないため、怨みが生まれ功も立たないと説く。今は事が多く労役が繁多で、民は貧しいのに風俗は奢侈に流れ、様々な職人が無用の器物を作り、婦人が華美な装飾に凝り、麻布を織ることを怠って皆が刺繍を求め、互いに模倣し合い一人だけ持たないことを恥じている、兵民の家でさえこの風潮に従い、内には一石の蓄えもないのに外には綾錦の衣服を着ており、まして富裕な商人はさらに金銀を重ね、いよいよ奢侈が甚だしいと述べる。天下がまだ平定されず百姓が困窮している以上、民生の根本を一つにし穀物・布帛の生産を豊かにすべきなのに、無用の華美な技巧に功を費やし、贅沢な事に日を費やしていることを指摘し、たとえば吏士の家に子女が少なくとも一・二人、多ければ三・四人いるとして、一戸に一人の女がいると仮定すれば十万戸で十万人となり、一人が年に一束の布を織れば十万束になる、国中が心を一つにすれば数年で布帛は必ず蓄積すると計算を示し、民には五色の衣を自由に着させ、ただ無益な刺繡の飾りだけを禁じるべきだとし、美貌の者は華美な色彩に頼らずとも美しく、艶やかな姿は文様に頼らずとも人を惹きつける、五色の飾りだけで十分に美しいと説く。もし本当に「あってもなくても損得がない」ものであれば、なぜこれを断ち禁じて府庫の急を充たさないのかと問い、これこそ窮乏を救う第一の務め、富国の根本であり、管仲・晏嬰が生き返ってもこれに代わる策はないだろうと述べる。漢の文帝・景帝は太平の世を継いでなお、華美な織物が農事を妨げ女の仕事を害することを憂い、富国の道を開き飢寒の根を絶とうとした、まして今は天下六合が分裂し豺狼が路に満ち、兵は境を離れず甲冑を脱ぐ暇もない状況で、生財の根本を広め府庫の蓄えを充実させないでよいはずがないと結んだ)。
晩年
- 孫皓は華覈が年老いていることから、上表の草稿を作らせようとしたが、華覈はあえてしなかった。さらに草文を作るよう命じられ、立ったまま待たされると、華覈は次のような文を作った(自分は小臣、取るに足らぬ凡庸の身でありながら聖代に生まれ合わせ特別な厚遇を受けたこと、朽ちた土壌から抜け出し朝廷で身を変えたようなものであること、感謝の言葉を連ね、罔極の恩に報いる術もないことを天に委ねるほかないと述べ、みだりに草稿を命じられたことへの恐れと、詔を受けて謹んで承ることを述べた)。
- 華覈が前後して便宜を陳べ、良臣を推薦し、罪過を釈明するために奉った上疏は百通余りに及び、いずれも国政に益するところがあったが、内容は多く逐一は載せない。天冊元年(275年)、些細な譴責によって免官となり、数年後に没した。韋曜・華覈が論じた事の章疏は、皆世に伝わっている。
史論
- 評していう。薛瑩は「王蕃は器量が抜きん出て博学多識であった。楼玄は清廉潔白な節操を持ち、才知は筋道立って明快であった。賀邵は志を励まし高潔で、その論理は簡明で要を得ていた。韋曜は学問に篤く古を好み、多くの書に通じ、記述の才があった」と称えた。胡沖は「楼玄・賀邵・王蕃はいずれも一時の清らかな才人であり、優劣をつけがたい。あえて言うなら楼玄が先、賀邵がこれに次ぐ。華覈は文賦の才では韋曜に勝るが、典誥(経学的な文章)では及ばない」とした。私が見るに、華覈はたびたび良策を献じ、身を尽くすことを期しており、ほとんど忠臣と言うべきである。しかし、この数人はいずれも無道の世にありながら名声と地位を得たため、非業の死を遂げるのは道理であり、それを免れられただけでも幸いだったと言えよう。