三國志卷六十四 吳書十九 孫綝

専権の始まり

  • 孫綝、字は子通、孫峻とは同じ祖先を持つ。父の孫綽は安民都尉であった。孫綝は初め偏将軍となり、孫峻が死ぬと侍中武衛将軍となり、中外の諸軍事を領して朝政を代行した。
  • 呂拠はこれを聞いて大いに恐れ、諸督将と連名で滕胤を丞相に推す上表を共にしたが、孫綝は滕胤を大司馬とし、呂岱に代わって武昌に駐屯させようとした。呂拠は兵を引いて還り、人を遣わして滕胤に知らせ、共に孫綝を廃そうとした。
  • 孫綝はこれを聞き、従兄の孫慮に兵を率いさせ江都で呂拠を迎え撃たせ、使者を遣わして文欽・劉纂・唐咨らに兵を合わせて呂拠を撃たせた。また侍中左将軍華融・中書丞丁晏を遣わして滕胤に呂拠を捕らえるよう告げ、あわせて滕胤に速やかに立ち去るよう諭させようとした。
  • 滕胤は自身に禍が及ぶことを悟り、華融・丁晏を留め置いて兵を整え自衛し、典軍楊崇・将軍孫諮を召して孫綝の反乱を告げ、華融らに孫綝を難詰する書を書かせようとした。孫綝はこれに応じず、滕胤が謀反したと上表し、将軍劉丞に爵位を約束して兵騎を率いて急ぎ滕胤を包囲攻撃させた。滕胤もまた華融らを脅して偽の詔で兵を発しようとしたが、華融らは従わず、滕胤は皆これを殺した。
  • 『文士伝』はいう。華融、字は徳蕤、広陵郡江都の人。祖父が乱を避けて山陰の蕊山の麓に住んでいた。当時、皇象もまた山陰に寓居しており、呉郡の張温が皇象に学ぼうとやって来て、宿舎を求めた。ある人が張温に「蕊山の麓に華徳蕤という者がいる、若いが立派な志があるので、そこに宿るとよい」と告げた。張温はそこで華融の家に留まり、朝夕語り合った。まもなく張温が選部尚書となると、華融を抜擢して太子庶子とし、これにより名を知られるようになった。華融の子、華諝は黄門郎となり、華融と共に殺害された。次子の華譚は才弁で称され、晋の秘書監となった。
  • 滕胤は顔色を変えず、談笑もふだんどおりであった。ある者が滕胤に兵を率いて蒼龍門に至るよう勧め、「将士があなたが出てくるのを見れば、必ず皆孫綝を見捨ててあなたにつくでしょう」と言ったが、既に夜半であった。滕胤は呂拠との約束を頼みにしていた。また兵を挙げて富春(孫綝の本拠)に向かうことも難しく、部曲に呂拠が近くまで来ていると伝えたため、皆滕胤のために死力を尽くし、離散する者はいなかった。時に大風が吹き、夜が明けるまで呂拠は到着しなかった。孫綝の兵が大挙して集まり、滕胤及び将士数十人を殺し、滕胤の三族を夷ぼした。
  • 臣松之案ずるに、孫綝は凶暴であったとはいえ、滕胤とは以前から確執はなかった。滕胤がもし孫綝の意に従って武昌に出鎮していれば、その時の禍を免れるどころか、永く大きな幸いを保てたであろうに、危機を犯して害に触れ、自ら滅亡を招いた、悲しいことである。

専横と諸葛誕救援の失敗

  • 孫綝は大将軍に遷り、仮節を授けられ、永寧侯に封じられたが、権勢を頼んで驕り高ぶり、多く無礼な行いをした。以前、孫峻の従弟孫慮は諸葛恪誅殺の謀に加わっており、孫峻に厚遇され、右将軍・無難督に至り、節と儀仗の蓋を授けられ、九官の事を平(さば)いていた。孫綝は孫慮を孫峻の時より薄く扱ったため、孫慮は怒り、将軍王惇と共に孫綝暗殺を謀ったが、孫綝は王惇を殺した。孫慮は毒を仰いで死んだ。
  • 魏の大将軍諸葛誕が寿春で挙兵して叛き、城を保って(呉に)降伏を願い出た。呉は文欽・唐咨・全端・全懌ら三万人を遣わしてこれを救援させた。魏の鎮南将軍王基が諸葛誕を包囲し、文欽らは包囲を突いて城に入った。魏は中外の軍二十余万を全て動員して諸葛誕の包囲を増強した。
  • 朱異は三万人を率いて安豊城に屯し、文欽の勢いを助けようとしたが、魏の兗州刺史州泰が朱異を陽淵で迎え撃ち、朱異は敗退し、州泰に追われて死傷者二千人を出した。孫綝はここに大々的に兵を発し鑊裡に出屯し、さらに朱異に将軍丁奉・黎斐ら五万人を率いさせて魏を攻めさせ、輜重を都陸に留めさせた。朱異は黎漿に屯し、将軍任度・張震らに勇士六千を選ばせ、屯所の西六里に浮橋を作って夜に渡らせ、偃月塁を築かせたが、魏の監軍石苞及び州泰に破られ、軍は退いて高地に拠った。朱異は再び車箱囲を作って五木城に赴こうとしたが、石苞・州泰に攻められて敗れて帰った。また魏の太山太守胡烈が奇兵五千で間道から都陸を襲い、朱異の物資・糧食を全て焼き尽くした。
  • 孫綝は朱異に兵三万を授けて死戦させようとしたが、朱異はこれに従わず、孫綝は鑊裡で朱異を斬り、弟の孫恩を遣わして救援させた。ちょうど諸葛誕が敗れたため、軍を引いて戻った。孫綝は結局諸葛誕を救出できず、士衆を失い、自ら名将(朱異)を殺したことで、誰もが彼を怨んだ。

孫亮との対立と廃立

  • 孫綝は孫亮が親政を始め、多くのことを問い質すようになったことを恐れた。建業に戻ると病と称して朝見せず、朱雀橋の南に邸宅を築き、弟の威遠将軍孫拠に蒼龍門に入り宿衛させ、弟の武衛将軍孫恩・偏将軍孫幹・長水校尉孫闓をそれぞれ諸営に分屯させ、朝政を専らにして自己の地位を固めようとした。
  • 孫亮は内心孫綝を嫌い、孫魯育が殺害された経緯を追及し、虎林督朱熊・その弟外部督朱損が孫峻の悪事を正さなかった責めを怒って、丁奉に命じて朱熊を虎林で、朱損を建業で殺させた。孫綝は諫めたが聞き入れられなかった。
  • 孫亮はそこで公主孫魯班・太常全尚・将軍劉丞と共に孫綝誅殺を謀った。孫亮の妃は孫綝の従姉の娘であったため、この謀を孫綝に告げた。孫綝は夜に兵を率いて全尚を襲い、弟の孫恩を遣わして劉丞を蒼龍門外で殺させ、宮殿を包囲した。
  • 『江表伝』はいう。孫亮は全尚の子で黄門侍郎の全紀を召して密かに謀り、(孫綝が専横を極め、朝廷を軽んじ、功臣朱異を勝手に殺しながら先に上奏もせず、橋南に邸宅を築いて朝見しなくなったことなどを挙げ、これ以上耐えられないとして、全紀の父〔全尚〕を中軍都督とし密かに士馬を整えさせ、自ら橋のたもとに出て宿衛の虎騎と左右無難で孫綝を一斉に包囲する計画を語った)。
  • 全紀は詔を受けてこれを全尚に告げたが、全尚は深慮なく妻(全紀の母)に語ってしまい、その母が人を遣わして密かに孫綝に告げてしまった。孫綝は夜、兵を発して孫亮を廃そうとし、夜明けまでに兵は既に宮殿を包囲していた。
  • 孫亮は激怒し、馬に乗り弓矢を帯びて出ようとし、「私は大皇帝(孫権)の嫡子であり、在位して既に五年になる、誰が従わないでいられようか」と言ったが、侍中の近臣や乳母が引き止めて出られなかった。孫亮は二日間食事もせず歎き、妻を「お前の父は愚かにも我が大事を台無しにした」と罵り、また全紀を呼んだ。全紀は「父が詔を謹んで守らず陛下に背いた、もはや合わせる顔がない」と言い、自殺した。
  • 孫盛はいう(孫亮伝には孫亮が幼くして聡明であったとあるが、それならば当然まず全紀と謀って妻には先に知らせなかったはずである。『江表伝』の漏洩の経緯の記述はより事実に詳しい)。
  • 孫綝は光禄勲孟宗に廟に告げさせ孫亮を廃し、群官を召して「少帝(孫亮)は病がひどく心が乱れ、大位にあって宗廟を承けるにふさわしくないので、先帝に告げてこれを廃する、諸君にもし異論があれば申し出よ」と告げると、皆震え上がり「ただ将軍の命に従います」と言った。孫綝は中書郎李崇を遣わして孫亮の璽綬を奪い、孫亮の罪状を遠近に布告させた。尚書桓彝はこれに署名することを拒み、孫綝は怒ってこれを殺した。
  • 『漢晋春秋』はいう。桓彝は魏の尚書令桓階の弟である。『呉録』はいう。晋の武帝が薛瑩に呉の名臣を問うた際、薛瑩は桓彝に忠貞の節があったと答えた。

孫休の擁立と滅亡

  • 典軍施正は孫綝に琅邪王孫休を迎え立てるよう勧め、孫綝はこれに従った。宗正孫楷を遣わして孫休に書を送った(自分は薄才ながら大任を授かりながら陛下を十分に輔導できていないこと、劉承を親任して美色を好んだこと、婦女を徴発したこと、朱据の子朱熊・朱損を先帝の旧臣の子でありながら殺したこと、宮中に船を作らせたこと、太常全尚が忠告を怠り敵と内通したことなどを列挙し、旧典に基づき今月二十七日に全尚を捕らえ劉承を斬ったこと、孫亮を会稽王とし、孫楷を遣わして迎えることを告げた)。
  • 孫綝は将軍孫耽を遣わして孫亮をその国(会稽)に送り、全尚を零陵に、公主(孫魯班)を豫章に移した。孫綝の増長はいよいよ甚だしくなり、民や神を侮り、大橋のたもとの伍子胥廟を焼き払い、また仏塔の祠を壊し、道人(僧)を斬った。
  • 孫休は即位すると、草莽の臣と称して闕に詣で上書した(自らの才が国政を担うに足らず、皇族の縁で重職に就いたことへの慚愧を述べ、印綬・節鉞を返上して田里に退き賢者に道を譲りたいと願い出た)。孫休はこれを引見して慰撫した。
  • また詔を下して(自分が不徳ながら藩を守っていたところ、群臣に推されて宗廟を奉じることになったこと、大将軍〔孫綝〕が忠計を発し危難を扶けて社稷を安んじた功勲を賞賛し、漢の宣帝が即位した際に霍光を尊んだ故事に倣い、大将軍を丞相・荊州牧とし五県を食邑とすること)を告げた。孫恩は御史大夫・衛将軍、孫拠は右将軍となり、皆県侯に封じられた。孫幹は雑号将軍・亭侯、孫闓もまた亭侯に封じられた。孫綝一門は五人が侯となり、皆禁兵を掌り、権勢は君主を上回るほどであり、呉の朝臣でこれまでこのようなことはなかった。

誅殺

  • 孫綝が牛と酒を奉じて孫休のもとに参上したが、孫休はこれを受け取らず、左将軍張布のもとに届けさせた。孫綝は酒がまわると怨み言を漏らし、「(孫亮を)廃した時、私に自ら帝位に就くよう勧める者が多くいた。私は陛下が賢明だと思ったからこそお迎えしたのだ。帝は私がいなければ立てなかったはずだ、それなのに今、礼を尽くしても拒まれるのは、まるで凡臣と変わらぬ扱いだ、改めて考え直さねばならぬ」と言った。張布はこれを孫休に伝え、孫休はこれを心に留めた。
  • 孫休は孫綝に変事があることを恐れ、たびたび賞賜を加え、さらに侍中の恩寵を加えて文書を分掌させた。ある者が孫綝は怨みを抱いて君主を侮り謀反しようとしていると告げると、孫休はこれを捕らえて孫綝に引き渡し、孫綝はこれを殺した。これにより孫休はますます恐れ、孟宗を通して武昌への出鎮を求め、孫休はこれを許し、統率下の精鋭一万余人を全て装備させ、武器庫の兵器も全て与えるよう命じた。
  • 『呉暦』はいう。孫綝は中書の二郎を求め、荊州の諸軍事を掌ろうとした。担当者は中書は外に出すべきでないと上奏したが、孫休は特にこれを許し、要求は全て与えた。将軍魏邈は孫休に「孫綝が外に出れば必ず変事が起こる」と説き、武衛士の施朔もまた「孫綝が謀反しようとする兆しがある」と告げた。孫休はひそかに張布に問い、張布は丁奉と共に会の場で孫綝を殺す計を謀った。

最期

  • 永安元年(258年)十二月丁卯、建業では明日の会で変事があるとの噂が広まった。孫綝はこれを聞いて不快に思った。夜、大風が吹き木を折り砂を巻き上げると、孫綝はますます恐れた。戊辰の臘会(年末の宴)で、孫綝は病と称した。孫休が強く出席を促し、使者は十数回に及んだ。
  • 孫綝はやむを得ず出ようとしたが、周囲の者が止めた。孫綝は「国家から幾度も命令があった以上、辞退できない。あらかじめ兵を整えておき、府内に火を放たせれば、それを口実に速やかに戻れる」と言い、参内した。まもなく火が上がると、孫綝は退出を求めたが、孫休は「外の兵は既に多い、丞相の手を煩わせるまでもない」と言った。孫綝が席を立とうとすると、丁奉・張布は左右に目配せしてこれを縛らせた。
  • 孫綝は叩頭して「交州へ流されることを願います」と言った。孫休は「お前はなぜ滕胤・呂拠を流さなかったのか」と言った。孫綝はさらに「官奴として身を落とすことを願います」と言うと、孫休は「なぜ滕胤・呂拠を奴にしなかったのか」と言い、そのまま斬らせた。
  • 孫綝の首を掲げてその配下に「孫綝と共謀した者は皆赦す」と告げると、武器を捨てた者は五千人に及んだ。孫闓は船に乗って北の魏に降ろうとしたが、追われて殺された。三族を夷ぼされた。孫峻の棺を発いてその印綬を取り上げ、木だけを埋めた。これは孫峻が孫魯育らを殺した罪によるものであった。
  • 孫綝が死んだ時、二十八歳であった。孫休は孫峻・孫綝と同族であることを嫌い、特にその属籍を除き、「故峻」「故綝」と呼ばせた。孫休はさらに詔を下し「諸葛恪・滕胤・呂拠は無罪でありながら孫峻・孫綝兄弟に殺害された、心痛むことである、速やかに改葬し、それぞれ祭奠を行うように。恪らの事件に連座して遠方に流された者は、一切召し還すように」と告げた。