三國志卷五十八 吳書十三 陸遜
陸遜は字を伯言といい、本名は議、呉郡呉県の代々の大族の出。孫策の娘婿となり、関羽から荊州を奪う謀略や夷陵の戦いで劉備の大軍を破った功により丞相にまで昇った。晩年は太子孫和と魯王孫覇の後継争い(二宮の争い)で太子擁護を主張し、権にたびたび責められて憤懣のうちに没した。享年63。
出自と初期の経歴
- 陸遜は字を伯言といい、呉郡呉県の人である。本名は議、代々江東の大族であった(『陸氏世頌』によれば、祖父の紆は字を叔盤といい聡明で学問を好み城門校尉を務めた。父の駿は字を季才といい篤実で郷里に慕われ、九江都尉に至ったという)。
- 遜は幼くして父を失い、従祖の廬江太守陸康のもとで育った。袁術が康と仲違いし攻めようとした際、康は遜と一族を呉に帰らせた。遜は康の子・績より数歳年長で、一門の事を取り仕切った。
海昌屯田都尉から山越平定
- 孫権が将軍となった頃、遜は21歳。幕府に出仕して東西曹令史を歴任し、のち海昌屯田都尉に出て県事も兼ねた(『陸氏祠堂像賛』によれば海昌は今の塩官県である)。
- 県は連年の日照りに見舞われたが、遜は倉を開いて貧民を救い農桑を奨励し、民に慕われた。当時呉郡・会稽・丹楊には山中に潜む者が多く、遜は建議して募兵の権を得た。会稽の山賊の頭目潘臨は長年討伐できなかったが、遜は手勢を率いて険阻な地を平定し、部曲は2000余人となった。鄱陽の賊帥尤突の反乱も討伐し、定威校尉を拝命して利浦に屯した。
- 権は兄・策の娘を遜に嫁がせ、しばしば世務を諮問した。遜は「今は英雄が並び立ち、敵を克服し乱を鎮めるには衆の力が要る。しかし山中の賊は根強く、まず内を平らげねば遠くを図れない。大々的に部隊を編成し精鋭を選ぶべきだ」と建議し、権はこれを容れ帳下右部督に任じた。丹楊の賊帥費棧が曹操の印綬を受け山越を扇動し内応した際、遜は少数の兵で牙幢を多く立て夜襲によりこれを破散させ、東の三郡を編成して精鋭数万を得て蕪湖に帰還した。
呂蒙との謀議と荊州奪取
- 会稽太守淳於式は遜が民を不当に徴用したと上表したが、遜はかえって式を良吏と称えた。権に理由を問われると「式の意図は民を養うことにあり、それゆえ私を訴えたのです。私が式を誹って聖聴を乱すべきではありません」と答え、権は「まことに長者の行いだ」と称えた。
- 呂蒙が病と称して建業に赴いた際、遜は見舞い「関羽は境を接しているのに、なぜ遠く下るのか」と尋ねた。蒙は「病が重い」とだけ答えた。遜は「羽は勇猛さを誇り人を見下し、専ら北進を務めまだ我らを警戒していない。病と聞けばますます備えを緩めよう。今こそ不意を突けば必ず制圧できる」と述べたが、蒙は「羽は元来勇猛で敵し難く、既に荊州を占め恩信も篤い、容易には図りがたい」と答えた。
- 蒙は都で権に後任を問われ「陸遜は思慮深く重責に堪える器だが、まだ名声が高くないため羽に警戒されない。表向きは韜晦させ内には情勢を察知させるべきです」と推挙した。権は遜を偏将軍右部督に任じ蒙の後任とした。遜は陸口に至ると羽へ書を送り、于禁らの捕虜獲得を称賛しつつ自らを「書生に過ぎず良策を仰ぎたい」と控えめに記し、警戒を解かせた。
- 羽は遜の謙った書を見て安堵し警戒を解いた。遜は羽の動静を詳しく権に報告し、権はひそかに軍を進めて遜と呂蒙を先鋒とし、たちまち公安・南郡を陥落させた。遜はさらに進んで宜都太守を領し、撫辺将軍・華亭侯に任ぜられた。劉備方の宜都太守樊友は逃走し、諸城の長吏や蛮夷の君長は皆降った。建安24年(219年)11月のことである。
荊州平定の完成
- 遜は将軍李異・謝旌らに3000人を率いさせ蜀将詹晏・陳鳳を破って鳳を生け捕り、房陵太守鄧輔・南郷太守郭睦も大破した。秭帰の大姓文布・鄧凱らの数千の夷兵も破り、逃走して蜀に仕えた両人を誘い布を帰順させた。前後の斬獲・招納は総計数万に及び、権は遜を右護軍・鎮西将軍に進め婁侯に封じた(『呉書』によれば、権は遜を特に顕彰しようとし、上将軍列侯でありながら本州の挙による官途も経させようと、揚州牧呂範に別駕従事として辟召させ茂才に挙げさせたという)。
- 荊州の士人が新たに帰属し仕官の機会を得られない者が多かったため、遜は上疏し「漢の高祖・光武帝の故事に倣い、荊州平定直後の今こそ広く人材抜擢の恩を加えるべきだ」と述べ、権はこれを容れた。
夷陵の戦い
- 黄武元年(222年)、劉備が大軍を率いて西の境に迫ると、権は遜を大都督・仮節に任じ、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら5万を率いて当たらせた。備は巫峡・建平から夷陵にかけて数十の屯を連ね、馮習を大督、張南を前部、輔匡・趙融・廖淳・傅肜らを別督とし、まず呉班に平地で挑発させたが、遜は「必ず策略がある、しばらく様子を見よう」と諸将の即時攻撃論を退けた(『呉書』によれば、遜は「備は全軍で東下し鋭気盛んで険要に拠っている、急いで攻めても勝ちきれず、大勢を損なう恐れがある。まず将士を励まし変化を見るべきだ。山沿いの進軍では敵は展開できず自ずと疲弊する」と述べたが、諸将は理解できず遜が備を恐れていると恨んだという)。
- 備は伏兵8000を谷中から出したが、遜は「呉班攻撃を許さなかったのは巧計を読んだからだ」と述べ、さらに上疏して夷陵の要害を失えば荊州全体が危うくなること、備の用兵は敗多く成少ないこと、水陸並進を捨て歩兵で処々に営を構える以上他に変事はないことを説いた。
- 諸将が「攻め時を逃した、要害も固められた」と焦ると、遜は「備は今は久しく駐留して兵は疲れ意気は沮喪し、新たな策も浮かばない。挟撃するのはまさに今日だ」と答え、まず一営を火攻めで試したのち全軍を一斉に攻めかけ、張南・馮習・胡王沙靡柯らを斬り、40余の営を破った。備の将杜路・劉寧らは降伏を請い、備は馬鞍山に登ったが遜の四面からの猛攻により軍は土崩瓦解し死者は万を数えた。備は夜に紛れて逃げ、武具を焼き捨てて追撃を防ぎようやく白帝城に入った。舟船・武具・軍資はほぼ失われ、遺骸が江を埋めた。備は「私はついに遜に辱められた、天命であろうか」と嘆いた。
孫桓救援と諸将統御
- 孫桓は別動隊として備の前鋒を夷道で討っていたが包囲され救援を求めた。遜は「まだその時ではない、安東(孫桓)は将士の心を得ており城も堅く食糧も十分、私の計略が実れば自ずと解ける」と答え、実際に策が奏功すると桓は「以前は救援がないことを恨んだが、今日に至り用兵に道理があったと分かった」と述べた。
- 諸将には孫策以来の旧将や皇族の縁者もあり命に従わなかったため、遜は剣を按じて「劉備は天下に名高く曹操も憚った強敵だ。諸君は国恩を受けながら一致協力すべきなのに従わないのは筋が通らない。私は書生に過ぎぬが主上の命を受けた以上、各々職務があり辞退はできぬ。軍令を犯してはならぬ」と諭した。
- 備を破るに至り策の多くが遜から出たため諸将は心服した。権に理由を問われ、遜は「恩を深く受けながら任は才を過ぎている。諸将は腹心・爪牙・功臣であり皆国家が共に大業を成すべき人材だ。藺相如や寇恂が身を低くして事を成した故事を慕った」と答え、権は輔国将軍・領荊州牧に任じ江陵侯に改封した。
曹丕南征への備えと蜀漢との連和
- 備が白帝城に留まると徐盛・潘璋・宋謙らは再攻を願ったが、権が問うと遜は朱然・駱統とともに「曹丕は大軍を集めている、援軍と称するが内実は奸心があるはずで撤兵を決すべきだ」と答えた。ほどなく魏軍は果たして出撃し、呉は三方から敵を受けることになった(『呉録』によれば、備は魏の大軍出撃を聞き遜に「賊は既に江陵にいる、私は再び東進するがどう見るか」と問い、遜は「軍が破れたばかりで傷が癒えていない、通交を求めるくらいで手一杯のはずだ、なお遠征してくるなら逃げ場はない」と答えたという)。
- 備はほどなく病没し、子の禅が位を継ぎ諸葛亮が政を執って権と連和した。権は時事に応じ遜に禅・亮への言葉を伝えさせ、権の印を刻して遜のもとに置かせた。権が禅・亮に書を送る際は常に遜に見せ、当否に不安があれば改めさせその印で封をして送らせた。
石亭の戦い
- 黄武7年(228年)、権は鄱陽太守周魴に魏の大司馬曹休を欺かせた。休は大軍を率いて皖に入り、権は遜を仮黄鉞・大都督としてこれを迎え撃たせた(陸機は遜への銘で「魏の大司馬曹休が我が北辺を侵したため公に黄鉞を仮し六師と中軍禁衛を統率させた、主上は自ら鞭を執り百官はひざまずいた」と記す。『呉録』によれば、仮黄鉞の際、呉王自ら鞭を執って見送ったという)。
- 休は欺かれたことを恥じ精強な兵馬を恃んで交戦した。遜は自ら中軍を率い朱桓・全琮を左右の翼とし、三道から迫って休の伏兵を突き崩し夾石まで追撃、1万余を斬獲、牛馬騾驢の車1万輛を得て軍資はほぼ尽きた。休は帰還後、背中に疽を発して死んだ。武昌通過の際、権は御蓋で遜を覆わせ宮殿の出入りを許し、賜った品はすべて御物の上珍であった。
上大将軍・太子輔弼
- 黄龍元年(229年)、遜は上大将軍・右都護を拝命した。権が東の建業に巡幸した際、太子・皇子・尚書ら九官を留めて遜に太子輔佐を命じ、荊州および豫章など三郡の事も併せ掌らせ軍国の事を監督させた。
- 建昌侯孫慮が堂前に鴨の欄を作り小細工を凝らした際、遜は「経典を学び自らを高めるべきだ」と正しこれを壊させた。射声校尉孫松が軍規を乱した際は、その職務担当の吏の髪を剃らせた。南陽の謝景が劉廙の「刑を先にし礼を後にする」論を善しとすると、遜は「礼が刑に勝ることは久しい、あのような説を講じてはならぬ」と叱った。
- 遜は身は外にあっても心は常に国事にあり、上疏して「法が厳しすぎて犯罪者が多い、天下未統一の今は恩恵で民心を安んじるべきだ。才能ある者は些細な過失があっても再登用して力を尽くさせるべきで、漢の高祖が陳平の過ちを許して功業を成した例に倣うべきだ、峻法厳刑は帝王の隆業ではない」と時事を陳べた。
夷州・遼東出兵への諫言
- 権が夷州・朱崖への出兵を諮ると、遜は上疏して「四海がいまだ定まらぬ今は民力を頼みとすべきで、万里の遠征は風波が測りがたく水土に慣れぬ民は疫病に倒れる。江東の兵力だけで十分であり、まず力を蓄えるべきだ。治乱討逆には兵威が要るが農桑衣食こそ民の本業であり、士民を育み租賦を寛くすれば天下を統一できる」と諫めたが、権はついに夷州を征し得るものは失うものを補えなかった。
- 公孫淵が盟約に背いた際、権が自ら遠征しようとすると、遜は上疏して「淵の所業は憎むべきだが、陛下自ら万乗の身で海を渡り危険な遠征に赴くのは道理に合わない。今や陛下は烏林で操を破り西陵で備を敗り荊州で羽を捕らえた当世の英傑を悉く挫かれた。小さな怒りに耐えられず万乗の重きを軽んずるのは私の惑うところだ。強敵が国境にある今、遠征すれば必ず隙を窺われる。大事が成功すれば淵は討たずとも服す、遼東の兵馬を惜しんで江東の万全の基盤を捨ててよいものか。六師を止め大敵に威を示し中夏を早く定めることこそ将来に光を残す道だ」と諫め、権はこれを容れた。
襄陽方面の軍事
- 嘉禾5年(236年)、権が北征し遜と諸葛瑾に襄陽を攻めさせた。近侍の韓扁が上表文を持ち帰る途中で敵に捕らえられ、瑾は内情が漏れたと恐れ撤退を勧めたが、遜は答えず平常通り種蒔きや遊戯を続けた。瑾が問うと「敵は陛下の帰還を知り我らに専念できる、動揺せず軍を落ち着け策を巡らせてから退くべきだ。今退けば敵は我らが恐れたと見て追い迫る、必敗の形勢だ」と答えた。
- 瑾に舟船を統率させ、遜自身は全兵馬を率いて襄陽城に向かうと、遜を恐れる敵は急ぎ城に戻り、瑾は無事に船を出せた。軍が白囲に至ると狩猟にかこつけ、ひそかに将軍周峻・張梁らに江夏の新市・安陸・石陽を攻めさせ、市が塞がり城門が閉じられぬほどの混乱の中で千余人を斬獲した(裴松之は、遜が既に威勢を示し敵を寄せ付けなかったのに、なぜひそかに小県を襲わせ市人を驚かせ自国民同士を傷つけ合わせたのか、俘虜千人程度では魏を損なうに足らず無辜の民に害を及ぼしただけだと批判し、この過ちがのちに陸氏が三代に及ばず滅んだ祟りではないかと述べる)。
- 捕虜には保護を加え兵士による侵犯を許さず、家族を失った者には衣糧を与え厚く慰労して送り返したため、感激して帰順する者もいた(裴松之はこれを、林や巣を壊しつつ卵を残す程度の小恵に過ぎないと評す)。江夏功曹趙濯、弋陽の備将裴生、夷王梅頤らが従い、遜は財帛を惜しまず彼らを援助した。
- 魏の江夏太守逮式が北の旧将文聘の子・休と不仲だと聞いた遜は、式へ答える偽書を作って「休との確執を知った、来投するなら密かに書を寄せよ」と記し境界に置かせた。式の兵がこの書を見て式に見せると式は恐れ自ら妻子を洛陽へ送り返し、これにより将士の信望を失い罷免された(裴松之は、辺将の害悪は常のこと、逮式が罪を得ても後任も同様であろう、これを美事とはできないと評す)。
鄱陽の乱平定と呂壱弾劾
- 黄武6年、中郎将周祗が鄱陽で募兵を願い出た件を諮られた遜は「この郡の民は動きやすく安んじにくい、募兵を許すべきでない」と答えたが、祗は強行し、郡民の呉遽らが果たして祗を殺し諸県を攻め落とし豫章・廬陵の悪民も呼応した。遜が自ら討伐に赴くとたちまち破り精兵8000余人を得て三郡は平定された。
- 中書典校の呂壱が権柄を弄び威福をほしいままにしていた頃、遜は太常潘濬と共に憂い涙を流して語り合った。のち権は壱を誅し深く自責した(詳細は『権伝』に見える)。
謝淵・謝厷の献策と経済論
- 謝淵・謝厷らは便宜策を陳べ改革を図ろうとした(『会稽典録』によれば謝淵は字休徳、若くして徳操を修め自ら耕作にあたり名を知られ、孝廉に挙げられ建武将軍に至り、駱統の子秀への根拠なき誹謗を弁明させ秀を顕士にした。『呉暦』は謝厷を才弁・計術に長けた人物と称える)。
- 遜はこの件を「国は民を本とし力と財は民から出る、民に利を与えず尽力させるのは難しい。『詩経』も民の安寧を歌う。聖恩をもって百姓を安んじ数年のうちに国の財が豊かになってから改めて図るべきだ」と議した。
丞相就任
- 赤烏7年(244年)、遜は顧雍の後任として丞相となった。詔には、艱難の中で天資聡叡な遜が上将を統べ国難を匡した功績を伊尹・呂尚に比して称え、持節・太常の使者に印綬を授けさせ、州牧・都護・武昌の統括はこれまで通りとする旨が記された。
二宮の争いと憤死
- これより先、太子と魯王の二宮に子弟を侍らせる風潮があった。全琮に相談された遜は「子弟に才があれば用いられぬ心配はない、私的に出仕させるべきではない。二宮の勢力が拮抗すれば必ず対立が生じる」と答えたが、琮の子寄は魯王に阿附し党派を組んだ。遜は琮に「卿は金日磾に倣わず寄を留め置いている、遂には門戸に禍を招くだろう」と書き送ったが聞き入れられず関係にひびが入った。
- 太子に不安な兆しが見えると、遜は「太子は正統であり磐石の固さを持つべき、魯王は藩臣であり寵秩に差をつけるべきだ」と叩頭流血して3、4度上訴し、都に上って直に論じようとしたが聴許されず、遜の甥の顧譚・顧承・姚信は太子に親しんだために流罪となり、太子太傅の吾粲は遜としばしば書を交わしたことに連座して獄死した。権はたびたび責めたため、遜は憤懣のうちに没した。享年63。家に余財はなかった。
人物眼と評価
- かねて暨艷が官府の人事を厳しく選別する論を唱えた際、遜はこれを諫め必ず禍を招くと述べた。諸葛恪には「私より上の者は必ず推戴し、下の者は支え助ける。今君は上を凌ぎ下を蔑む気配がある、これは徳を安んずる基ではない」と告げた。広陵の楊竺が若くして名声を得た際は必ず末路を誤ると見抜き、竺の兄穆に別族を勧めた。長子の延は早世し、次子の抗が爵を継いだ。孫休の時、遜に昭侯と追諡された。