三國志卷五十八 吳書十三 陸抗
陸抗は字を幼節といい、陸遜の子で孫策の外孫にあたる。父の没後にその兵を継ぎ、長江上流の防衛を担う西陵都督として晋との攻防の最前線に立った。西陵督歩闡の叛乱を鎮圧する一方、対峙する晋将羊祜とは互いに信義を通じ合った逸話で知られる。鳳凰3年(274年)に没し、その死の6年後に呉は晋に滅ぼされた。
出自と初期の経歴
- 陸抗は字を幼節といい、孫策の外孫である。遜が没した時、抗は20歳で建武校尉を拝命し遜の遺した兵5000人を統率、葬送のため東へ帰り都に上り謝恩した。孫権は楊竺が遜について訴え出た20項目の件を抗に問い質し賓客との接触を禁じ中使が詰問したが、抗は動じず一つ一つ答え権の疑念は次第に解けた。
- 赤烏9年(246年)、立節中郎将に遷り諸葛恪と柴桑での屯所を交換した。抗は去るにあたり城囲を修繕し垣屋を整えたが、恪が入った柴桑の旧屯は荒廃しており恪は深く恥じた。太元元年(251年)、都に赴き治病した。病が癒えて帰る際、権は涙ながらに「以前は讒言を信じ汝の父との義を篤くしなかった、以前のやり取りはすべて焼き捨てよ」と語った。
- 建興元年(252年)、奮威将軍。太平2年(257年)、魏将諸葛誕の寿春降伏に応じ柴桑督として出陣し魏の牙門将・偏将軍を破り征北将軍に遷る。永安2年(259年)、鎮軍将軍・西陵都督として関羽の故地から白帝までを統括、永安3年、仮節を得た。孫皓即位後は鎮軍大将軍・益州牧を加えられ、建衡2年(270年)、左大司馬施績の没後、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安諸軍事の都督となり楽郷に治所を置いた。
政務への上疏
- 都の政令に欠陥が多いのを憂い、抗は上疏して「六国が強秦に併呑され西楚が漢高祖に服したように、今、敵(魏晋)は九服を跨ぎ制し国家は外に連合の援けなく内に西楚の強さもない、長江・険山を頼みにするのは守国の末事にすぎない。戦国の存亡や劉氏の傾覆の例を鑑み夜も眠れず食も忘れるほど憂慮している」と述べ、17か条の時宜を陳べた(この17条は原文が失われ伝わっていない)。
- 宦官の何定が権を弄び政に容喙していた頃は、「国を開き家を承けるには小人を用いてはならない、これは『尚書』の戒めだ。小人は道理に暗くたとえ忠節を尽くしても任に堪えない、まして奸心が篤く愛憎で態度を変える者ならなおさらだ。今かかる者に専制の威を委ねては治は望めない。現在の官吏にも名門で孝を身につけた者や清貧で自立し能力ある者がいる、才に応じて職を授け群小を退ければ風俗は清まる」と上疏した。
西陵の戦い(歩闡の乱)
- 鳳凰元年(272年)、西陵督歩闡が城に拠って叛き晋に降を乞うた。抗は直ちに将軍左奕・吾彦・蔡貢らを西陵へ急行させ、赤谿から故市に至る厳重な包囲柵を昼夜急いで築かせたため兵は大いに苦しんだ。諸将は「急いで闡を攻めるべきだ」と諫めたが、抗は「この城は地の利が固く食糧も十分、防御は私がかつて設計したものだ、急に攻めても落とせず、北の援軍が来た時に備えがなければ表裏から挟撃される」と答えた。宜都太守雷譚の懇請で一度だけ攻めさせたが利がなく、包囲の完成を待つことになった。
- 晋の車騎将軍羊祜が江陵へ向かうと諸将は抗が上流に上るべきでないと言ったが、抗は「江陵は堅固で仮に陥ちても損失は小さい。西陵が晋と結べば南山の諸夷が騒動し容易に収まらない、江陵を捨てても西陵に赴く」と答えた。羊祜が水利用で船運を図ると抗は江陵督張咸に堰を破らせ、祜は当陽で車運に改め大きな損失を被った。
- 晋の徐胤は建平へ、荊州刺史楊肇は西陵へ至った。抗は張咸に城を守らせ、孫遵に祜を、留慮・朱琬に胤を防がせ、自ら三軍を率いて肇と対峙した。将軍朱喬・営都督俞賛が肇の元へ逃亡すると、抗は「賛は我が内情を知っている、夷兵の防備が手薄な場所を敵は狙うはずだ」と読み、その夜のうちに夷兵と旧将を入れ替えた。翌日、肇は案の定その場所を攻めたが、抗は矢石を降らせ肇軍に死傷者が相次いだ。肇は1か月で策尽き夜に逃走、抗は太鼓で追撃するふりをして敵を恐れさせ、軽兵で追わせて肇を大破し、祜らも撤退した。抗はついに西陵城を陥とし闡の一族と大将吏を誅殺したが、それ以下の赦免者は数万人に及んだ。楽郷へ帰還した抗の様子に驕った色はなく、将士の心をよく得た。
- 抗と羊祜は春秋の季札の交誼に倣い、抗が贈った酒を祜は疑わず飲み、祜が贈った薬を抗も疑わず服した(『晋陽秋』)。羊祜が徳をもって呉人を懐柔すると、抗は境の守備隊に「彼が徳を為すなら我らは戦わずして服することになる、各々分を守り小利を求めぬがよい」と告げ、呉晋の境では余った穀物も牛馬も互いに犯さず、負傷した捕虜も送り返し合うほどになった(『漢晋春秋』)。抗が病んで祜に薬を求めると祜は自ら調合した薬を送り、抗は諸将の諫めを聞かず服用した。孫皓に両国の和を詰問された抗は「一邑一郷でさえ信義の人が要る、まして大国では。私がそうしなければ彼の徳を際立たせるだけで祜に害はない」と答えた。習鑿歯は、理と信義こそ人心を保つ道であり、羊祜・陸抗ともに力ではなく信義によって国を保とうとしたことを高く評価した。
薛瑩弁護の上疏
- 都護を加拝された抗は、武昌左部督薛瑩が下獄したと聞き、上疏して「英才は国家の宝である。大司農楼玄・散騎中常侍王蕃・少府李勗はみな当世の秀才であったのに寵遇の後ことごとく誅殺された。『周礼』『春秋』にも賢者・善人を宥す義があり、『書経』も罪なき者を殺すより法を誤って赦す方がよいと説く。しかし王蕃らは罪名も定まらぬうちに極刑に処され、死者をなお焼き流し水辺に棄てるのは先王の正典に外れる。瑩の父綜は先帝を補佐した功臣であり瑩の罪は宥すべきものだ、有司が詳らかにせぬまま誅殺すればいっそう民望を失う」と訴えた。
軍事負担についての上疏
- 軍事行動が絶えず民が疲弊していた頃、抗は「『易』は時に従うことを尊ぶ、時機なくば聖人でさえ憂え退く。今は富国強兵・農耕蓄穀に努め、賞罰を明らかにして百姓を撫し、しかる後に天運に乗じるべきだ。それを諸将が名を求め兵を窮め武を黷し、費用は万単位で士卒は疲弊するのに敵は衰えず我らは既に大病を患っている。しばらく進取をやめ小規模に留め民力を蓄え機を窺うべきだ」と諫めた。
- 鳳凰2年(273年)春、大司馬・荊州牧を拝命した。
臨終の上疏と死
- 鳳凰3年(274年)夏、病に倒れた抗は上疏して「西陵・建平は国の藩屏であり下流に位置して両面から敵を受ける地だ。父の遜はかつて西陵を国の西門と呼び、失えば荊州全体を失うと述べていた。私は精兵3万を求めたが常のごとくにしか配されず、歩闡の乱以降さらに減じている。私が統べる千里の地は四方から敵を受けるのに実際の兵は数万に過ぎず疲弊が続いている。諸王はまだ幼く傅相を立てて導かせ無用に兵馬を用いるべきでない。宦官が募兵の権を握り兵民は逃亡している、調査させ私の部隊を8万に満たすようにし賞罰を信賞必罰にすれば韓信・白起が再来しても手も足も出まい。この制度が改まらなければ大事を成すのは深い憂いである。私が死んだのちは西方の事は乞うて任せていただきたい」と述べた。
- 秋、抗は没し、子の晏が後を継いだ。晏および弟の景・玄・機・雲は抗の兵を分領した。晏は裨将軍・夷道監となった。天紀4年(280年)、晋軍が呉を伐ち龍驤将軍王濬が長江を下ると各地は次々に陥落し、ついに抗が憂慮した通りとなった。
子孫(陸景・陸機・陸雲)
- 景は字を士仁といい、公主を娶り騎都尉・毗陵侯となり、抗の兵を継いで偏将軍・中夏督となり、身を修め学を好み書数十篇を著した(『文士伝』によれば景の母張氏は張承の娘で諸葛恪の甥にあたり、恪誅殺の際その母は連座して退けられた。景は若くして祖母に育てられ、祖母の死に三年の心喪に服したという)。2月壬戌、晏は王濬の別軍に殺された。癸亥、景もまた殺された、享年31。景の妻は孫皓の実妹で、景と共に張承の外孫であった。
- 景の弟の機は字を士衡、雲は字を士龍という(『機雲別伝』によれば、二人はともに晋の太康末年に洛陽へ入り、司空張華に才を認められ諸公に推挙された。機は太傅楊駿の招きで祭酒、のち太子洗馬・尚書著作郎に転じ、雲は呉王郎中令、浚儀の宰として善政を敷いた。機の文才は当代随一、雲は弁論に長けた。両者は成都王司馬穎に結び、機は平原相、雲は清河内史・右司馬となったが、長沙王司馬乂との抗争で機は後将軍代行として20万を督し敗戦を重ねた。穎の寵臣孟玖への諫言や、その弟超との軋轢から讒言を受け、機・雲・弟耽はともに処刑された。世はこれを痛惜し、機の文章・雲の著作はともに世に伝わった。かつて抗の歩闡討伐で幼児にまで誅殺が及んだことを見識ある者は「後世必ず祟りを受ける」と憂えたが、機の誅殺で三族は残らず滅び、孫恵は硃誕への書に「陸氏三兄弟が暴虐な朝廷に身を寄せ命を落とし名を汚した、悼み嘆かずにいられない」と記した。この件は『晋書』にも見える)。
史論
- 評して言う。劉備は天下に雄と称され当代の誰もが畏れた相手であったが、陸遜は年若く名声も未だ立たぬ頃にこれを挫き志を遂げた。私(陳寿)は遜の謀略の非凡さに驚くとともに、権が人材を見抜いた眼識にも感嘆する、これこそ大事を成し得た所以である。遜の忠誠は篤く国を憂え身を顧みなかった点で社稷の臣にほぼ近い。抗もまた忠貞・才略ともに父の風を受け継ぎ代々美名を重ね、その器量は父に及ばぬまでも具えており、まさに家業を継承した者と言えよう。