出自と交友
- 陸瑁は字を子璋といい、丞相陸遜の弟である。若くして学を好み義に篤かった。陳国の陳融、陳留の濮陽逸、沛郡の蔣纂、広陵の袁迪ら、いずれも貧しくとも志を持つ者たちが瑁のもとに集い交わり、瑁は自らの少ない財を割いて共に分かち合った。同郡の徐原は会稽に寓居し面識もなかったが臨終に遺言を残して孤児を託し、瑁はその墓を建て子を養育した。また瑁の従父陸績が早くに没し残された二男一女がまだ数歳であったが、瑁は迎え養い成長するまで面倒を見た。州郡がたびたび辟召しても応じなかった。当時、尚書の暨艶が清議によって三署の官員を厳しく評定していたが、人の暗い過去まで暴いて処罰を目立たせていた。瑁は書を送り、聖人は善を嘉して愚を憐れみ過失を忘れて功を記すことで良俗を成すものであり、今は王朝草創の時であり漢高祖のように瑕疵を捨てて人材を用いるべきであると諭し、あまりに厳格な人物評定は行われがたいとして孔子の広い愛や郭泰の寛容に倣うよう勧めたが、艶はこれに従わず結局失脚した。
公孫淵征討への諫言
- 嘉禾元年(232年)、朝廷は瑁を召し議郎・選曹尚書を拝命させた。孫権が公孫淵の巧言と裏切りに憤り自ら親征しようとした際、瑁は上疏して諫めた(上疏の大意:聖王は遠夷を羈縻するのみで常に保有しようとしないもので、公孫淵は辺境の小人物にすぎず、その驕慢は蛮族に常の態度であって驚くには及ばない。漢の諸帝も西域への遠征でしばしば挫折を経験している。今、北方の魏国と国境を接する中で、遠く海を渡り公孫淵を親征すれば腹心の患いを招くだけであり、決して得策ではないと述べた)。権はこれを許さなかったため、瑁は重ねて上疏し、兵革の使用は本来天下が定まってから行うべきものであり、今の中夏鼎沸の時勢にあっては近きを捨て遠きを治めることは軍を疲弊させるだけだと論じ、南越を僭称した尉佗に対しても漢文帝が遠征を控えた故事を引いて自重を促した。権はこの言葉の理にかなうことを評価し、遂に親征は行われなかった。
- かつて瑁の同郷の聞人敏が瑁より優遇されていた際、瑁だけは異論を唱えており、後にその見立ての正しさが証明された。赤烏二年(239年)、瑁は没した。子の陸喜も文籍に通じ人倫を重んじ、孫皓の時代に選曹尚書となり、晋に入り散騎常侍となった。瑁の孫の陸曄は字を士光といい、車騎将軍・儀同三司に至った。曄の弟の陸玩は字を士瑤といい、器量が優れ司空に至り没後に太尉を追贈された。