三國志卷五十七 吳書十二 吾粲

出自と抜擢

  • 吾粲は字を孔休といい、呉郡烏程県の人である(『呉録』によれば、粲が生まれて数歳の頃、孤独な老女が「この子には卿相の骨相がある」と評したという)。孫河が県長であった頃、粲は小吏であったが、河は深くその才を認めた。河がのちに将軍となり長吏を自ら選べるようになると、粲を曲阿丞に推挙し、長史に遷らせ治績を上げた。孤微の身から起こったが、同郡の陸遜・卜静らと肩を並べるほどの名声を得た。孫権が車騎将軍であった頃、主簿に召され、山陰令に出て、参軍校尉に戻った。

洞口の戦いと救助

  • 黄武元年(222年)、呂範・賀斉らと共に舟師をもって魏将曹休を洞口で拒んだ際、大風に見舞われ諸船の綱が断たれ漂流し岸に打ち上げられ、魏軍に捕らえられたり水に沈んだりした。生存する大船の上の人々は必死に助けを求めて叫んだが、他の吏士は船が傾き沈むのを恐れて戈矛で近づけまいとする者が多かった。粲は黄淵とともに船人に命じ救助にあたらせ、周囲が船が重くなり危険だと言っても、粲は「船が沈めば共に死ぬまでのこと、人が窮しているのを見捨てられようか」と述べ、粲と淵によって助けられた者は百余人にのぼった。

二宮の変での最期

  • 帰還後、会稽太守に遷り、処士の謝譚を功曹に召したが、譚は病と称し応じなかったため、粲は龍や鳳凰の喩えを用いて出仕を勧めた。粲は人を募って昭義中郎将を拝命し、呂岱と共に山越を討平し、屯騎校尉・少府に入り、太子太傅に遷った。太子孫和と魯王孫霸の二宮の争いに際し、粲は正論を唱えて嫡庶の分を明らかにし、魯王を夏口に出し楊竺を都に留めさせぬよう主張した。また陸遜としばしば連絡を取り合っていた。これにより孫霸・楊竺らに讒言され、下獄の末に誅殺された。